☆ 今週号のJMM(月曜日)を読んでの感想。
☆ 第二次世界大戦の敗戦を経て,我が国が高度経済成長を成し遂げていった過程には,さまざまな歪みが同時に発生している。保守主義者はことさらその点を論(あげつら)う傾向があるが,総じて主張としては正しい。反面,革新主義者が主張するように,これは国家としての自立の過程でもあり前者が言うほど「無意味」なことでもない。つまり,どちらも正しいということだ。どちらも正しいのであれば,必然的にどちらとも一部分間違っているわけで,その部分を探し出して修正する(ダメ出し)ことが求められる。
☆ 例えば村上龍が最初に(編集長から)書いている。
> 派遣切りに遭い住居を失って、「ホームレスになるしかない」と言う人がいます。そういう人はまったく身寄りがないのだろうかと、わたしはいつも思います。家族や親類、友人がまったくいないのだろうかという疑問です。もちろんさまざまな事情があるのでしょう。先日、日本に住む中国人の友人が、「わたしたちは平均して日本人より貧しいですが、日本の路上や公園に寝起きする中国人ホームレスは比率的に日本人より少ないだろうと思います」と言っていました。社会におけるマイノリティの人たちは、お互いに助け合う傾向があるように思われます。だから偉いということではなく、その必要に迫られているからです。
☆ この「お互いに助け合う傾向」が喪失していった過程には,境屋太一言うところの「団塊の世代」が,1960年代に入りその上の世代との相克を経て「自立していく過程」において「マイホーム⇒ニュー・ファミリー」という幻想を共有し,その団塊ジュニアが育っていく過程において,それが個人の最適化(=ミニマリズム)というカタリスト(触媒作用)により「地域社会の崩壊」を招いていったその一連の作用の結果であると見ることは可能だ。
☆ つまり日本社会は「共助の精神」を「軍国主義的隣組精神(=江戸時代の「五人組」制度の焼直しでもある)」によって悪用された歴史へのルサンチマン(逆恨み=保守主義者が好んで論う「戦後民主主義批判」のキモでもある)から,意識的(高度経済成長)あるいは無意識的(ニュー・ファミリー,シンプル・ライフ,ミナマリズム等)に徹底的に崩してしまった。その結果,共助(ゲマインシャフト)の無い「成果主義的即物社会」が登場した。JMM土曜版の冷泉彰彦氏が指摘する ”そこには、「前提にとらわれない現実主義の精緻化」という意味ではポストモダン、「暴力的なヒエラルキーシステム」という意味では前近代(プリモダン)という二つの要素が入り混じっている” 社会(以前このブログで「北斗の拳」の冒頭部分を引用したことがある)が,それだ。
☆ 従って,ここでの議論は「資本主義的(資本市場的)正解」が,CSRにおける「市民社会の倫理的あるいは社会規範的要請」と「利益相反する状況」においてそんな社会の「調節者」には誰がなるべきなのかという問題を提示することになる。それは別に政治経済学的に考えるまでも無く,本来的な国家(つまり「政治」)の役割であろう。それ以外のところ(私企業や株主や労働組合など)に解を求める事じたいが間違っている。だから「財政再建派の頭領」と目される与謝野馨氏ですら,日経のインタビューを読むとセイフティネットのためにプライマリーバランスの実現が遅れる覚悟は出来ているように見える。
☆ 実は社会(言い換えれば現体制)にとって最大の「敵」は財政赤字ではなく社会全体の不安定化である。合成の誤謬の典型のような現在の「企業の状況」を救えるのは,財政出動以外にはない。身体が冷たくなりかけているのにマッサージもしなければ死んでしまう。組織は中心から死ぬのではなく末端から壊死する。日本という国はいまやその最も弱い部分から壊死し始めている。「北斗の拳の冒頭」のような「カネすら何の意味も持たない "力" だけの歪んだ社会」にするのかしないのか。それは為政者の問題であり,それを選ぶ義務のある我々自身の問題でもある。