kinkan600のブログ -10ページ目

kinkan600のブログ

ELVIS PRESLEY と渓流釣りに夢中です。気楽に話したいです。
渓流釣りはこちらです.http://patchitup.livedoor.blog/

「Sunset Boulevard」は1972年3月録音が中心のように思えます。

1970,1974,1975年分より解説が長い。

解説書の1枚目が若手メンフィスマフィアのジェリーシリングの解説。

(GOOGLE翻訳から)

RCAハリウッド・スタジオで、プロデューサーのフェルトン・

ジャーヴィスと共に。フェルトンは1972年3月下旬、エルヴィスは

終夜にわたるレコーディング・セッションを終えたばかりだった。

ロサンゼルスでのレコーディングは、エルヴィスお気に入りの

プロデューサーの一人、熟練した控えめな存在、つまり

エルヴィスがスタジオでその街のトップ・セッション・

プレイヤーだった人物と組むことができたはずだったが、

エルヴィスはツアー・バンドのほとんどのメンバーと

レコーディングすることを選んだ。ミュージシャンと

プロデューサーが素晴らしいスタジオに集まったことで、

興奮の雰囲気が生まれ、エルヴィスはまさにそのような

雰囲気の中で最高の作品を生み出したのだ。 ジョー・

エスポジートと私もその夜そこにいた。セッションが

終わると、エルヴィスは録音された曲、レッド・ウェストが

書いた「セパレート・ウェイズ」を3人で聴くように

わざわざ勧めてきた。セッションの熱気にもかかわらず、

エルヴィスの気分が落ち込んでいるのがわかった。 

レッドはこの曲を、エルヴィスとプリシラの間の問題の真相を

誰も知る前に、崩壊しつつある結婚生活について書いた。

そして今、二人が別れてからわずか数週間後、レッドの歌詞で、

エルヴィスはまるで悲痛な自伝を歌っているかのようだった。 

「愛は消え去り、僕たちに残ったのは友人だけ…

まるで他人同士のようだ。」

 この曲はジョーと僕にとって心に響いた。僕たち二人とも、

結婚生活が放置によって崩壊し、離婚を経験していたのだ。

エルヴィスと一緒にエルヴィスの曲を聴いている間、

彼は無表情だったが、曲が終わるたびにキューを回し、

また最初からかけて、私たちの方を見た。そしてうつむいて

首を横に振った。少しばかり。まるで宙に漂う問いかけが

聞こえてくるようだった。

「愛した女性たちに、一体何をしてしまったんだ?」 

 翌晩、私たちは再びRCAに戻り、再びセッションを行った。

「セパレート・ウェイズ」で掻き立てられた感情がまだ生々しく、

エルヴィスは明らかにロックする気分ではなかった。

しかし、フェルトンはヒット間違いなしと確信していた

アップテンポの曲のデモを持っていた。

エルヴィスはそれを聞いて却下した。

エルヴィスの頭と心がどこにあるかは分かっていたが、

その曲は私にとってもヒットに聞こえた。

ジョーと私はエルヴィスを決して押し付けるべきではないと

分かっていたが、フェルトンを応援し、エルヴィスにこの曲に

挑戦してみるよう促した。結局、彼はエルヴィスに

「バーニング・ラブ」を歌った。もしかしたら心から

乗り気ではなかったのかもしれないが、録音を聴けば

そんなことは分からない。

彼は素晴らしく、説得力のある歌声を披露していたのだ。

 彼がこの曲に本格的に興奮したのは、リリースされてからでした。

そしてフェルトンの予想は正しかったのです。

この曲はヒットしました。

実際、この曲はエルヴィス最後のトップ10ヒットとなり、

最高2位を記録しました。

エルヴィスは「炎が今、私の体を舐めている」といった歌詞を

歌うことにあまり乗り気ではなかったと思いますが、

ヒット曲を出すことは喜びでした。

エルヴィスとの友情は、私の人生における最大の栄誉であり、

RCAでのあの夜は、真のアーティストの仕事を目の当たりに

できた数え切れないほどの貴重な瞬間の一つです。 

 ジェリー・シリング

1972年3月27日~30日
エルヴィスはレコーディングを夕方に行い夜に突入することを

好んでいた。

最初のセッションは3月27日午後7時に予約されていた。
最後のセッションは3月30日午前1時に終了した。
その日のうちに、エルヴィスは4月5日にニューヨーク州
バッファローから始まる次のツアーのリハーサルを開始した。
過酷なスケジュールは、エルヴィスのマネージャー、
パーカー大佐がMGMピクチャーズと締結した契約によって
複雑化していた。このツアーのドキュメンタリー撮影は、
スタジオCで、ちょうど終わったばかりのレコーディング・
セッションの一部を再現することになっていた。

エルヴィスにさらなるプレッシャーが必要だったとすれば、
彼のシングルが2年間トップ10入りしておらず、
売上が急落していることを痛感していたことだろう。
これからレコーディングするテープのどこかにヒット曲を残す必要があったのだ。

何曲が検討されたのかは定かではないが、コンセプトとまでは
いかないまでも、テーマは浮かび上がっていた。 
エルヴィスと妻プリシラは今年の初めに別れており、彼は後悔に

満ちた歌に惹かれていた。最初の曲は初日に披露された。

3月27日午後7時~3月28日午前3時
レッド・ウェストは高校時代からのエルヴィスの知り合いだった。

エルヴィスから曲を依頼されることはなかったが、

レッドは何か良い曲が出来そうだと思えば、とにかく曲を提案していた。

「『Separate Ways』は私自身の状況から生まれたんです」と

ウェストは後に語っている。「息子のブレントについて書いていました。

当時、エルヴィスはプリシラとの問題を抱えていたので、

リサ・マリーに共感するように曲を変えました」

「メロディーとコード進行を弾いていた。
レッドがパッドを手に取った。まるで特別な何かができたと
確信したかのように、彼は本当に興奮した表情をしていた。
エルヴィスがプリシラとの別れやそれがリサ・マリーに
与えた影響について歌うなんて想像もできなかったので、
少し不安だった。あまりにも個人的な内容だし、彼の人生は
毎日メディアで取り上げられていた。でもレッドは
『彼はカットすると思う。本当にそう思う。チップスの
スタジオでちょっとしたデモを作ったんだ』と言い続けた。」

エルヴィスは21テイクに落ち着くまでに合計25テイクを録音した。
エルヴィスの友人ジェリー・シリングはこう回想している。
「『Separate Ways』はエルヴィスに深く響いた。
スタジオで3時間もかけて演奏したんだ。セッションの後、
彼はただ顔を上げてテープをひっきりなしに振っていた。
『俺たちは何度も何度も聴いた。もう一度聴きたいか?』と。
何度も何度も繰り返し聴いた。本当に悲しい時期だった。
彼の人生をよく反映していた。ヒット曲がなかったので、
ただ自分の人生について歌っていたんだと思う」
クリス・クリストファーソンの「フォー・ザ・グッド・タイムズ」は
テーマ的には「セパレート・ウェイズ」の続編だったが、
シングルとしてリリースする意味はなかった。
RCAは1995年のコンピレーション・アルバム
『ウォーク・ア・マイル・イン・マイ・シューズ』まで
エルヴィスの音源をリリースしていなかった。

ボブ・ディランによって幕を開けたシンガーソングライターの時代は、
クリストファーソンのために築かれたと言っても過言ではない。
一方、ポール・ウィリアムは、それ以前はニューヨークや
ロサンゼルスで無名で活動していたソングライターだった。

シンガーソングライター時代を駆け抜け、同時にパフォーマーと
しても活躍したウィリアムズ。キャロル・キングの成功例を
見れば一目瞭然だ。1972年、ウィリアムズの楽曲は
沸き立ち始めたが、ソングライターとしての最大の成功は、
映画やテレビの音楽、そして他のアーティストへのヒット曲の
数々によって、さらに後になってから訪れる。
「That's What Friends Are For」「We've Only Just Beguin」
「Rainbow Connection」「Evergreen」
「Rainy Days and Mondays」などだ。

クラシック・ポップスを研究していたウィリアムズは、
1950年代にはエルヴィスを無視していたが、
1968年のテレビスペシャルを見て、自分が何を見逃していた
のかに気づいた。4枚目のアルバムのために
「Where Do I Go From Here?」を書き、エルヴィスの音楽出版社が
エルヴィス版の出版権と引き換えに、この曲をエルヴィスに
提出することを申し出た時、ウィリアムズは飛びついた。  
「ある人たちはね」と彼は言った。
「エルヴィス、シナトラ、レイ・チャールズ。自分の言葉を
歌うその声を聞けば、批判などどうでもいい場所へ連れて
行かれる。それがエルヴィスなんだ」

2年後、ウィリアムズはラスベガスでライザ・ミネリの前座を
務めていた時、バックステージでエルヴィスに出会った。
ウィリアムズはエルヴィスに自分の曲を録音してくれたことに
感謝した。「エルヴィスは『ああ、光栄です。
それは何の曲でしたっけ?』と言った。
私は『『Where Do I Go From Here』です』と答えた。
すると彼は『ああ、素晴らしい曲ですね。
どのアルバムに入っているんですか?』と尋ねた。
私は『わかりません。そういうことは覚えていないんです』
と答えた。エルヴィスは、自分を普通の人間として扱ってくれる人が
大好きだった。そういう風に、まるでファックユーみたいな態度で
言い返されるとね」。実際、この曲は1年前にリリースされた、
想像力に欠けるタイトルのアルバム『エルヴィス』に収録されていた。 

「Where Do I Go from Here」を8テイク録音した後、
最初の夜は終わった。
3月28日午後7時~3月29日午前4時

エルヴィスは既に明確な考えを持っていた。彼は、しばしば
打ち砕かれるような後悔を込めた、スローで中店舗の曲に惹かれていたのだ。
しかし、ロックンロールが再びブームになっていた。
リチャード・ネイダーによるリバイバル・アルバムが業界の話題となり、
エルヴィスはよりによってその波に乗り遅れていた。

ジャーヴィスは体調が悪く、コントロールルームのソファに横たわって
いたにもかかわらず、「バーニング・ラブ」をナッシュビルから持ち込み
、エルヴィスに録音するよう強く求めた。ドラマーのロニー・タットは
セッションを効果的にプロデュースし、エルヴィスに「今こそこの曲だ」と
強く印象づけた。エルヴィスは抵抗したが、最終的にはこの曲に没頭した。

 エルヴィスのセッションの数週間前、「バーニング・ラブ」を含むリンドの
曲4曲が、R&Bシンガー、アーサー・アレクサンダーのアルバムに
収録されていた。これは、アレクサンダーが「ユー・ベター・ムーヴ・オン」で
キャリアをスタートさせてから10年後のことだ。アレクサンダーの
ニューアルバムはすぐに行き詰まっており、もしエルヴィスが
「バーニング・ラブ」をレコーディングする気になったとしても、
彼にはまともなライバルはいないだろう、ということが明白になった。

一方、ザ・スタンプスのドニー・サムナーはバックボーカルのアレンジを
担当していた。 フェードアウトに入ると、エルヴィスは高音の「
アーアー」を歌った。「高すぎたんだ」と、スタンプスのテナー・
ボーカリスト、ビル・ベイズはポール・リチャードソンに語った。
「あまりうまくいかなかった。セッション前に、
(エルヴィスの相棒の)チャーリー・ホッジがこう言っていたんだ。
『エルヴィスが指を差す時は、何か彼を感心させるようなことを
して欲しいんだ。次に『アーアー』のところで、
彼は私を指差したんだ。何をしてほしいのか分からなかったので、
ただ音程通りに高音を叫んだ。彼は気に入ってくれた。
その後1、2時間かけて、あの叫び声を完璧にマスターしたんだ』

「バーニング・ラブ」には2つのフックがあった。もちろん
「ハンカ、ハンカ」で、エルヴィスがすぐにこのフレーズを
ステージ上の動きに取り入れるようになった。そして、ブレイクから
エモリー・ゴーディの下降するベースラインが聞こえてきた。 
確かに、より控えめではあったが、曲の後半部分への完璧な
つなぎとなり、「ハンカ、ハンカ」を演出していた。
ゴーディは演奏しすぎたと感じていた。
「Dキーで知っている音はすべて弾いてしまった」と彼は
ミュージシャン誌に語っている。「あと数テイク録音すれば、
自分のパートを使える形に絞り込めると思ったんだ。その後、
フェルトンのところに行って、自分のパートがバラバラで修正が
必要だと静かに伝えた。彼は『まあ、いいか』と言った。正直、
ナッシュビルで別の人に差し替えられると思ったが、
そのまま残してくれた。レコードが発売された時には、
まるでエルヴィスのベースソロをフィーチャーしたかのような
サウンドだった!」


(下記は私の感想)
解説はまだまだ続きますが、メインは「BURNING LOVE」。
CD2ではTAKE3と4をつないだのか、変な曲になってます。
2分経ったところで、急にベースが聞こえない。
ここでつないでるのか?
多分、TAKE2の間違いと思います。
下記のクレジット間違いかな?

 

YOUTUBEにもTAKE2で紹介されてます。

因みに以前FTDから発売された「6363SUNSET」にも収録されてます。

 

なんか、こちらの「6363SUNSET]の方が、ELVISの声がよく聞こえて、私はこちらが好き。

全般に「SUNSET BOULEVARD]は音は良いのかもしれないが。。。。微妙。。。すみません。

 

ほかの写真も載せておきます。

参考になれば幸いです。