人生は修行。
終わりがない修行。
子供の頃は
「立派な大人になるために」
「立派な人間になるために」
「他人の気持ちがわかる様に」
「我慢が出来る人間になる様に」
と道徳や倫理を学んだり、家庭内で学んだり
幼稚園で学んだり…
ただ、成長して
自分が「大人」という年齢や年代になった時
感じるのは
「3つ子の魂、100まで」という事
そして
「困った大人や高齢の方が割とたくさん居る事」
です。
そう考えたり、感じると
人生の修行って本当は
立派な大人になるためではなく
単に自分が高齢者へと成長しつづけると
身体に不調や若い時とは違い
「当たり前に出来た事・出来る事が出来なくなったり、思う通りに身体と心の調和が取れなくなったり」が生じた時
自律を失わない事
感情を上下させる幅を小さくする事
感情で他人を圧迫しない事
性別や年齢で他人を判断したり見下さない事
利他の精神を無くす事
我慢出来なくなる事
がない様にしっかり修行を日々しないといけないな…
と思いました。
大人だって子供…
大切なのは子供よりも社会の関わりが少し大きくなったり、社会の中で責任が少し大きい様な気がしたり…と
子供も大人も大した差はないと思いました。
大切な事は幼稚園とか保育園でほぼ学び、体験している筈。
だけど、なんでそれが出来なくなってしまうんだろう…?
不快とかハンデとか思い通りにならない事とかで自我を爆発させたり、膨張させてはいけないと思う今日この頃です。
自由と責任
自律と他律
利他と利己
自我と他我
我儘と素直
いずれもどちらか一方だけの存在では成り立たない。どちらも調和が取れた保有が肝要なのだと思います。
矛盾の中に面白い事があるのだと思います。
立派な大人なんて少ない。
ただ、
自我をできるだけ薄くして自己保身と自己弁護や言い訳をしない生き方がしたいと思います。
希望と制限や制約がある状況や人生の中で
どうやって喜びを見出したり、喜びを発掘したり、楽しみや喜びをどうやって積み上げるか?積み上げる事が出来るか?
それを心の人生の財産や糧に出来るか?
一生のテーマや課題として忘れずにいたいです。
ないモノを「無い無い」と掘り下げても水が出ない井戸を掘り続けるような事。
つまり無駄と浪費って事だとも思います。
子供が大人になり、大人が子供に還っていく。
それが生きるという事なのでしょう。
いずれ、身体の寿命が終わり魂は還るべき所へ還っていく。
という事でしょう。
大人から子供に還るステージを見据えての修行をしていきたいと思います。