だから何という結果もコレといった主張もないけど、徒然なるままに、雑文。

 

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なんか、世の中優しい人もたくさんいるし、感動的なこともたくさんあるけど、やっぱり「ほんとかな」「本心かな」って疑う余地があるというか疑いを持つという選択肢があることが、いやだ。

本当に悪意を持って何か言う人がいる、というその現実が嫌。


イヤ、といってもそういうことがあるのは事実だし、疑って当然(疑うべきだ)みたいな時代的風潮もあるような気もする。(道端の子供に大人が挨拶しただけで疑われるとか。)

イヤ、といってもそれだけで済むと思っていられない年齢であることも重々承知である。が、しかし嫌なものはイヤ。

 

昔々、小学生の頃の国語の授業の一端を忘れられずにいることが、ちょっと関係あるのかなって思うので書いとく。

たしか国語の教科書に載っていた障害のある子どもとそのお母さんの話で、偏見で彼らを傷つけるような言葉を発したすれ違いざまの人たちの言葉と、彼らの事を見守って応援してくれる近所の方の言葉が載っていて、それについてどう思うかみたいな意見を言った時。

最初に傷つけるような言葉について、そしてそのあとに応援するような言葉に。

素直に見れば、前者の言葉はよくない、とかイヤだとか、かわいそうとか、そういうことで、後者の言葉はやさしいとか、自分もそうしたいとか、応援している言葉だとかそういうことで。

しかし私は後者の言葉に前者の気持ちが全くないのか?「本当にそう思っているのかな」と答えてしまった。先生は「何を言ってるんだ/間違っている」みたいな反応だった気がする。当時は「だってそう思っちゃったんだもん。私の思ったことはそうなんだもん。」とちょっとすねた気分になったものだ。

 

疑って正解なこともある。しかし、そこまで疑ってしまった自分がイヤな気もする。

偽善が全くの悪だとか言わないし、口先だけでも優しい言葉をかけたり応援したフリをして、心中の悪意というかどうしようもない差別感みたいなのを隠してもそれは悪いだけではない気もする。傷付けたくないけど(だから言葉は優しく、しかし)自分の感じるところはどうしようもない(傷つける意見である)ということもある。

 

こういうことに正解はないのかもしれない。

皆人間が正直で嘘がなければ傷つかないわけでもないが、裏の裏を読まなくてもいいくらい単純になれればもっと平和なのにな、とはいつも思う。

 

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個人的にはいろいろ考えたりするの面倒なので、単純に生きたいけど、そうばかりも言ってられない世の中なわけで。疲れるねぇ。

 

再見