明け方近く、空が気持ち白み始めた頃だった。ムーンは夢を見ていた。夢使いも普通に眠るときはある。一般人と同じように夢の世界でくつろぎ、無害な夢の世界に遊ぶ為に。それはごく普通の夢と同じ、大抵は目覚めると忘れてしまう、たあいない幻想の世界である。
 しかし、そのときのムーンの夢は違っていた。夢のエリート、英才教育を受けていたムーンでも始めて体験するものだった。

 彼は霞の中から現れた。一瞬前までどんな夢を見ていたか、ムーンは思い出すことが出来なかった。その夢は妙にはっきりしていた。夢に有りがちな生ぬるい湯につかっているような感覚が一瞬にして振り払われたように思えた。思考回路が起きている時の様に活発に活動している。ここはどこ、何でこんなところにいるの。そして不思議なことに、それらの疑問はすべて解決できた。自分が寝ていて、夢の中にいることがはっきり認識出来たのである。

 これだけ意識がはっきりしているのに、何故か世界は霞がかってぼやけていた。そして現れた彼はもっとはかなく、ぼやけていた。彼がどうやってここまでやってきたのかわからない。這ってきたようにも思えたし、そんなことが出来ないくらい憔悴していたようにも見えた。ただ、彼が異質な存在であることははっきりわかった。自分の存在も、世界を覆い尽くす霞も、自分の夢の産物であるのに、彼だけはなにか違っていた。彼は自分の夢の中で唯一の異分子だ。自分の産物ではない侵入者だということは、訳もなくはっきり感じていた。

「助けてくれ。」

彼はかすれた声で呟いた。
彼の姿は希薄だった。霞よりもっと軽い空気の塊のようで、ムーンが吐息をはきかけるだけで消えてしまいそうな感じがした。ムーンは彼を吹き飛ばしてしまわないように慎重に彼に近寄った。彼は片肘をつき、片手で地面を引っかきながらムーンの方ににじりよっていた。
「私の姿が恐ろしくはありませんか。」彼は顔を上げ、ムーンの目を見上げた。
 彼がそういうまで、ムーンはそれが自分の目の錯覚だと思っていた。見つめるその顔は声から想像した通り知的で端正だった。憔悴してうつろになりかかった瞳は憂いを帯びてよりいっそう妖しい魅力を放っていた。そのセピア色の肌、緑がかったセピア色の瞳、白目であるところは黒、唇は深いセピア、それが現実であるならば、とても奇怪な姿であった。
 しかし、ムーンはその姿を恐ろしいとは思わなかった。ムーンは外見で善悪を決めつけるような無責任なことは出来ない性格だった。なにより、彼の話振りは丁寧で、深みのある声はムーンを安心させる響きがあった。

「おそろしくは、ありません。」
「よかった。貴方を怖がらせてはいないのですね。」彼はほっとため息をついた。
「私は呪いをかけられて、このような姿になってしまった哀れな者です。どうか私のために力をお貸ください。」
 彼はムーンの手を取った。がっちりした男の手のぬくもりがムーンに伝わった。目を閉じてしまえば白い肌と何ら変わらない感触であった。男が握る力は弱々しかった。ムーンが支えてやらなければ崩れてしまう位頼りなく感じられた。
ムーンは、男の目を見つめ、はっきりわかるようにこっくりとうなづいた。




「よくまぁ今まで生き延びてこられたもんだなぁ、この村は。」キャリオットは額の汗を拭った。空気がゆらいで見える熱気。じっとしていても汗ばむかまどの前である。キャリオットは一息つくと、薪割りを再開した。
 言い出したのはキャリオットだった。村に来てから随分たつが俺は湯あみをしていない。今日は朝から風呂に入るぞ。さぁ風呂は何処だ案内しろ、と吠えた。気の早いキャリオットは周りの制止も聞かずその場で腰巻き一丁になり、人質の首根っこを摘まんで風呂へ向かった。
 かまどで湯を湧かすタイプの浴場は村に一つしかない。一度沸かすことになったら水汲みから炊き上げるまでにかなりの労力を要するので、普段は誰も使わず、村人は皆井戸端で水を浴びるだけで済ましてしまう。キャリオットが意気揚々と風呂場に足を踏み入れるとそこは蜘蛛となめくじに占領されたかび臭い別世界であった。慌てて追いかけた村人が、ここは平素使わないので、掃除して水を張ってから湯を沸かすまでたっぷり一日仕事だと諭した。キャリオットは激怒すると思いきや、あまりの惨状に気勢を削がれて毒気が抜けたか、妙に冷静だった。
「じじぃばばぁに任せておいたら日が暮れたって入れそうにないな。俺様が炊いてやるから細々したことを片付けろ。鉈を持ってこい。」キャリオットは腰巻き姿のまま裏手に回った。「おまえらもたまにゃ湯につかりたいだろう。横着していると薄汚い老いぼれになっちまうんだぜ。」
 ほどなく裏手から勢い良く巻きを断つ小気味良い音が聞こえてきた。鉈ひとつ振るうにも上手下手はある。力だけでも、腕だけでも薪は言うことを聞かない。薪のしんをしかるべき力で叩く時、薪は割り手に屈服して見事に割かれる。その点、キャリオットの薪割りは力と技が見事に調和している。村人はその姿をこっそり覗き見したくなった。均整の取れた上半身にうっすらと汗で濡らし、流れるようなリズムで次々に薪を割るキャリオットは芸術的でさえあった。キャリオットが村に現れて以来、彼は村人達の注目の的である。彼の肉体の素晴らしさ、溌剌さだけでなく、その小憎らしい向こうっ気の強さまでが、彼らに若さへの郷愁を喚起させた。
「おいこら、ぼーっと突っ立ってるなら水を汲んでこい。まったく年寄りは要領が悪いったらないぜ。」
 しかし、村人達が手に手に桶を持って水を運び始めると、辛気臭いと割って入り、火を起せと言い付けて、キャリオット自ら樽を抱えて井戸と風呂場を往復した。水を風呂桶一杯に張ると、今度はかまどに取って返した。かまどは既に熱を発してめまいがする程の熱気が充満していた。ちまちま炊くなとありったけの薪を突っ込み、薪がなくなるとその場で薪割りを再開した。キャリオットの仕事振りは豪快かつ性急で、日が天上に掛かる前に風呂から湯煙が立ち始めた。

「湯加減はどうだ。」キャリオットは小さな覗き窓から風呂につかった者に声を掛けた。湯加減を見ると称して何人かはもう湯舟につかっている。
「もう、大分いいと思うがな。」
「俺は熱いのが好きなんだ。おまえらが我慢できなくなるまで炊き上げてやるからな。」
「後はぼちぼちやりますよ。王様も入られたらいかがですか。」かまどに回ってきたのはムーニエ老であった。ムーニエは豚鬼と戦った老人の一人、白髪で小太り、片足を引きずった老人である。豚鬼との戦いでは夢に溺れて不本意な姿を見せたが、夢使いの実力では村で1、2を争う達人である。
「ほっとけ。おもいっきり汗を流した後の風呂は格別いいんだ。」
「だから、わしも少々汗を流させてもらおうかと思ってな。」
ムーニエは笑った。キャリオットが使うより少々小ぶりな鉈を手にしている。丸太の根っこで作った台に薪を乗せ、ためしに一本割って見せる。薪は従順にすとんと二つに割けた。力は比べるべくもないが熟練した手さばきである。キャリオットはふん、と鼻で笑う。
「無理はするなよ。汗まみれの年寄りは汚いからな。」
「ああ、まいったら誰かに替るから、心配はいらん。」
かまどに背を向け、体の汗を掌で切るキャリオットの背中に、ムーニエは更に語り掛けた。
「まだ、礼を言ってなかったな。あの時、ありがとう。」
「あの豚鬼、生意気そうだったから切った。それだけだ。」キャリオットはそう言いながらずんずん歩いて消えてしまったので、最後の方はムーニエには聞こえなかった。

 キャリオットは歩きながら腰巻きをほどき、その場に置き捨てて、前もあらわな姿でふろ場にずかずか入ってきた。ふろ場の先客は指図するでもされるでもなく、譲り合って湯舟の真ん中に席を空けた。キャリオットは当然のようにそこにざぶんとつかった。
「ちっ、まだぬるかったな。」真っ赤な顔をしてうそぶき、ゆっくり肩までつかると、大きくため息をついた。
「気持ちいいな。」キャリオットは大きな声で独り言を言う癖がある。誰に向かって言う訳でもないのだが、無視されると機嫌を損ねる。そんなキャリオットの性質は既に村中の者が知っている。単純明快、隠し事の出来ないタイプ。甲を経て、大抵の事を悟った村の老人達にかかれば、実にかわいい奴である。キャリオットの遠慮しない萎縮しない威勢の良さ、その尊大な態度でさえ、若気の至りと思うと容認できてしまう。
 それにしても鍛えられた見事な筋肉である。湯で桜色に染まってもつやを失わない肌、掌を返しただけでも脈動する力こぶ。
「あんた、ほんとにいい体しとるな。」横にいた老人がほれぼれと眺める。
「ちょっとだけ、触らせてくれんか。」
「おう。」キャリオットは湯から腕を引き上げ、こぶしを握って力こぶを作った。老人は人差し指と親指で摘まんでみる。
「貴様らじゃ、満身の力を込めたって潰せまい。」キャリオットは得意げに笑った。
「それじゃ。」老人は湯舟に半分立ち上がり、両手でぐいと二の腕をねじり上げた。キャリオットの眉間がぴくりと動く。「こらこら、ちっとは遠慮しろ。」キャリオットは冗談めかして腕を引っ込めた。少しは痛かったらしい。湯舟の中の者達はくすくす笑った。キャリオットも今度ばかりは引け目を感じたか、おとなしくすねた。
「いや、それでも立派なもんじゃ。」力こぶを握りつぶしてしまった老人がフォローした。「わしゃ若い頃、都の騎士を見たことがあるが、いやいや負けちゃおらん。」
「負けてないとは何事だ。はばかりながらこの俺様はな、産まれてこのかた負けたことがないんだぜ。」キャリオットは掴み掛かった。「俺様はこの世で一番強いんだ。貴様らごときに資質をうんぬん言われる筋合いはない。」
「だけどあんた。あんたは確かに強いけど、あんたより強い奴だっているだろうよ。」
「この俺様が負けましたと頭を下げて、それでも生き恥さらしてのうのうと生き延びるような卑怯者に見えるか。この俺がこうして生きていることが不敗の何よりの証拠だ。そりゃまぁ確かに引き分けた奴はいるにはいる。しかし、そいつらにだっていつかは勝つ。弱い奴は強い奴に服従する、それがものの筋道ってもんだ。しかし、俺様は誰にも服従する気はない。だから俺は負けない。」
「いや、偉い。立派な心がけだ。」風呂中が湯気に負けない熱気に包まれ、口々に賞賛の言葉が上がり、キャリオットはすっかりペースにはまって調子付いている。
「しかしな兄さん。人の上に立とうってからには力だけじゃだめだよ。」
「力以外に何がある?」
「ほら、例えば金とか、人徳とかな。」
「は!」キャリオットは力強くたたきつけた。「くだらんな。首を取られて金も人徳もあったもんか。徳なんてものは後からくっついてくるもんだ。金にいたっちゃちゃんちゃら可笑しい。右から左に動くだけで肥えたり痩せたりするようなもんを後生大事にしている馬鹿とはつきあいきれねぇ。」キャリオットはしぶきを上げて立ち上がった。
「俺様の財産は腕一本。誰も盗めない誰も替れないこれだけが確かな財産よ。きれいな服も豪華な屋敷もくだらない。百万の長になったところで飯が百万杯喰える訳じゃなし、百人分の風呂桶に入ったって体は一人分だ。うまいものが喰いたきゃ腹を減らすのが一番、着物は動きいいのが一番、金銀財宝を眺めて悦に入るような奴は、頭のねじが一本飛んでるのさ。俺様は本物の支配者だからな、にわか成り金みたいな下らん見栄を張るようなけちな支配者じゃないんだぜ。」
「随分欲のない話じゃな。それでなんで征服王になりたいんじゃな。」
「俺様が強いんだから仕方がない。強い奴が支配しないで弱い奴がどうして生きていけるってんだ。おれが支配者になりたいわけじゃない。俺が強いから支配者なんだぜ。もしも俺より強い奴がいるんなら、そいつが俺の支配者なんだろうぜ。もっとも、俺はそいつがどんなに強くたって戦って勝つぜ。支配される気はないからな。」

「よくはわからんが、要するにあんたがどんなに出世したって、風呂にはいるときゃこうやってみんなで入れるってことだな。」
「当たり前よ。広い風呂に独りで入ったってつまらんだけだろうが。金無垢の風呂より木の風呂の方があったかいんだぜ。使い切れない金抱えてもなんにもならない、それよりみんなでぱぁーっとのんじまったほうがよっぽど楽しいじゃないか。」
「ほんとに、支配者がみんなおまえさんみたいな懐の広いのばっかりなら、しあわせじゃろうな。」一人がしみじみという。
「心配せんでも、すぐに全世界の連中を俺の手下にしてやるさ。」そうして、キャリオットは得意の豪快な笑い声を風呂中に響き渡らせた。

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ここらへんでキャリオットのキャラが毒蝮三太夫になっていることに気が付く、が、軌道修正不可能