豚鬼の返り血はいくら洗い流してもちっとも落ちたように思えなかった。事実そのすえた臭いは一度や二度の水洗いで消えるような上品なものではなかったが、それでもムーンは何度も何度も井戸水をかぶり、何度も藁を替えて擦り続けた。
体よりも記憶にこびりついた臭いは簡単に消えてくれなかった。玉の肌は赤くすり切れて血が滲む。それでも擦る手を休めることが出来なかった。
必死に体を洗いながら、ムーンは同時にもう一つの血を洗い流していた。目覚めた男、キャリオットにかかった生臭い血の記憶である。
男はムーンの考えと少し違っていた。本当は大きくかけ離れていたのだが、ムーンはパニック状態の記憶で冷たく薄ら笑う悪魔のような男の形相を何とか自分の容認できる範疇に納め直そうと無茶な再構成を試みていた。ムーンに回り始めてしまった運命の歯車を打ち壊す勇気はなかった。あの男が自分の運命の相手ならば、なんとかして恋心を捏造してしまわなければならない。
しかし、男の血に飢えた獣のような目は、ムーンの描く安穏とした未来像にぴったりはまるようなものではなかった。命を奪う為だけに振り下ろされた剣の筋、ほとばしる生暖かい豚鬼の鮮血を春の霧雨ほどにも感じず、何のためらいもなく再度剣を振り下ろす姿、既に事切れた者に向かって一かけらの改悛の情も見せずに吐き出した自己礼参の台詞、ムーンの持っている常識にそういう行為を正当化する種は無い。表現するなら悪魔、人でなし、人非人、どうしても運命の男性を形容するにふさわしい言葉が見つからなかった。
それでも、あの人は私を護ってくれた。だからきっといい人に違いない。ムーンは強く念じた。敵を目前にしたら容赦無く、でも普段は心優しい穏やかな人に違いない。戦っている姿が楽しそうに見えたような気がしたけれど、根っから血なまぐさい行為が好きなように見えたけれどもそれは気のせいに違いない。そんなふうに見えてしまうのはきっと今まで悲劇的な人生を歩んできたからに違いない。戦わなければならない過酷な境遇の中で、あの人も私に巡り合うために必死で生き延びてきたのに違いない。
ムーンはまだ恋のなんたるかを知らな過ぎた。恋に恋する乙女はそうやって自分を恋しなければならない状況に追い詰めることで恋が出来ると信じていたのである。
ようやく落ち着きを取り戻したムーンは水浴び場からこそこそと自分の部屋に帰った。誰かに、特にあの男に出会うのではないかと思うと生きた心地がしなかった。今の自分はびしょぬれで、ただでさえ油っけのない髪はぼさぼさ、しかも濡れている髪は茶と黒のまだらが余計に目立ってしまう。着ていた服はごみ捨てに放り込んでしまったから布を一枚無造作に巻き付けているだけだし、こんな姿を見られたら百年の恋だっていっぺんに冷めてしまうに違いない。
部屋に帰るとムーンはまず香水を全身至るところにに打った。擦りむけた肌に揮発性の液体はやたらとしみたけれども、構っていられなかった。
それから鏡に向かってあれこれと思案した。友達や村の人達に貰った化粧道具の山をひっかき出して眺めたが、そのほとんどは今だかつて使ったことがないものばかりで、どう扱っていいやらいまさらわからなかった。
こんなことになるんならあの時やあの時にもっと真剣に話を聞いておけば良かった。今はもうよその村にそれぞれ嫁いで行ってしまった女友達はみんなこれを使って魔法の様にきれいになっていたというのに、馬鹿なムーンは他人事だと思ってなに一つ真剣に見ていなかった。
化粧品の一つ一つだって、貰ったときにはこれは××を××してつかうのよ、と丁寧な教育を受けたはずなのに、どうせ自分にはそんなに器用に出来っこないとおもって聞き流していたから肝心なところがちっとも思い出せやしない。
せめて化粧した完成品が思い出せれば参考になるはずなのに、どんなに首をひねってもきれいだったという漠然とした感じしか浮かばず肝心の細部は謎なのである。村の老婆のメークならなんとか思い出せるのだがそんなやり方を若いムーンが真似したらお化けになってしまう。
自分の器量じゃどんなに飾ったってたかが知れていると思っていた。でも今思えばなんて高飛車な思い様だったんだろうと、ムーンは悔やんだ。器量が知れているから飾るんじゃないの、かざらなきゃならない訳があるから飾るんじゃないの。しかし後悔先に立たず、今となってはただ呆然と美しくなる為の魔法の道具を眺めてほぞを噛むことしか出来ないのだった。
どうにでもなれ、ムーンの思考は極めてスローだが思い切ると切替えは早い。出来ないことを悔やんでも仕方ない、出来ることだけをやりましょう。ムーンはクロークを開けて服を引きずり出した。組み合わせを悩むほど衣装持ちではない。とにかく一番いい服を着て一番いいネックレスを掛ける。
そうこうしているうちに腰の柔らかい髪は乾いてさらさらになっていた。ムーンは髪が完全に乾き切る前にブラシをかけて僅かでもボリュームを持たせた。これだけは普段から実行しているのだ。
良い服が女を美しくするというのは必ずしも真理ではないが、良い服は女に自信を持たせるのは間違いない。ムーンは凛として部屋を出た。しかしムーンは自分が最上級に着飾っているという気合を落とさなくてはならない。男に会うために殊更着飾るというのはムーンの美徳ではない。あくまで自然に、ただ豚鬼に汚された服の代わりがこれしかなかったのよ、という風に見せなくてはいけないのだ。
ふん、と鼻から息を吹き出して気合を抜く。他人には絶対見せたくないムーン流のスイッチングである。完璧よ。ムーンは自分を励ます。血なまぐさい出会いだったがそれはもう忘れよう。これからが本当に本当の運命の出会いなんだ。
とは言ったものの、男が何処で何をしているか見当がつかなかった。村中が空っぽで人影が見えなかった。ムーンは少し不安になって小走りに人を探した。
不安が肥大する間もなくムーンは人の気配を聞き付けた。楽しそうな笑い声。もう何年も聞いたことのない愉快な響きであった。しかし、このときムーンは声の主がキャリオットであるとは露ほども思わなかった。その声は底抜けで豪胆で、それに少々下品な響きがあったからである。眠り続けるキャリオットを眺めて思った優しい柔らかい感じとも、豚鬼と渡り合ったクールな感じとも全く異質な声であったからである。
乙女の夢想というのは脆いものである。ムーンの心に棲んでいた白馬の王子の像は木っ端みじんに砕け散った。人だかりを遠慮がちにかき分けると、観衆の視線を一身に浴びた位置に憧れのあの人がいた。
男は明らかに浮かれていた。飼葉桶を小脇に抱え、額に血管を浮き上がらせてワイン樽の上で演説をぶっていた。口もとにはオートミールのかすがこびりついていた。そして訳のわからぬ馬鹿笑いをしていた。その口から矢継ぎ早に繰り出される単語の半分以上は無教養な者達が使う下品なスラングで、ムーンには内容のほとんどが理解不能であった。
その姿は良く言って酔っぱらい、悪く言うと馬鹿丸出しであった。ムーンは何度も何度も心のなかで復唱していた第一声をそっくり忘れて立ち竦んでしまった。頭の中では絵本で見た大聖堂の鐘ががらんがらんと鳴り響いていた。鐘の音はそんなばかな、そんなばかなと繰り返していた。
樽の上のキャリオットがムーンを見つけ、その目が陰歪に輝いた。ムーンは蛇に睨まれた蛙の様に動けず、息さえ出来なかった。キャリオットは観衆の頭を抑え、大またでわしわしと近づいた。
「この村は姥捨て村かと思っていたが、なんだ隠していたのか。」
キャリオットはムーンの前に立った。ムーンの心臓が早鐘のように鳴った。それは想像していたような心地よいものではなかった。キャリオットはいきなりムーンのあごを掴んで引き上げた。ムーンはなんの抵抗も出来なかった。
「ど田舎ならばこんなものか。まあいい、今夜の伽をさせてやろう。」
酒臭い息が掛かるまで間近に迫ったキャリオットの顔が醜悪に歪んだ。頭で考えるより早く手が動いていた。全体重のかかったムーンの掌がキャリオットの頬にヒットした。
その音はあまりに大きく、ざわめいていた衆の会話がピタリと止まった。
例外なくその場の全員が驚いていたが、一番驚いたのはムーンだった。ムーンは人に手を上げたことなど未だかつてない。正直に言えば人の頬がこんなにいい音を出す楽器だったとは思ってもみなかった。ムーンは殴った五本の指が全部硬直して、肩から下に下ろすことが出来なかった。
対照的に一番動じていなかったのはキャリオットだった。キャリオットの顔は半分が情けなく赤くなっていたが、表情自体にはなんら変化がなかった。
「この無礼は忘れてやろう。」
キャリオットが静かに言った。優しいのか、器量が大きいのか、いやたぶんこの程度を痛みとして感じるほど神経が繊細でないのだろう。
硬直していたムーンの思考が急激に活発に動き出した。忘れてやろう?無礼?冗談じゃない無礼はどっちだ、花も恥じらう乙女を捕まえていきなり伽とは何事か。わたしだってその意味くらい知っている、伽と言うのはつまりあれのことでしょう。あんたは私がそんなはしたない女に見えたの、初対面の男とそんなことをするような娘に見えたって言うの。だいたいあんたみたいな下品で愚劣な男に好意をもつような女がこの世の中に一人だっていると思うの?それを事もあろうに無礼だって?無礼って言葉の意味がわかっているの?あんたがあたしに言った言葉以上の無礼がこの世の中に存在するかしら、それがなんで私に向かって無礼ですって、忘れてやるとは何事よ、忘れてやるのは私の方じゃない、あんたに言われる筋合いはないわよ、それじゃまるで私がなにか悪いことをしたみたいじゃない、私が何をしたって言うの、あんたの頬を殴っただけじゃない、女の非力な力で、あんたみたいな鉄面皮にはぜんぜん平気でしょうに、それをどう許すっていうの?あたしは経験なんてないのよ、キスだってしたことがないのよ、それが恥ずかしいなんて思ったことは一度だってないわ、大事にとっておいたんですもの、だれがあんたに、あんたなんかに奪われなきゃならないの、やるもんですか、絶対渡しはしないからね、私が大切にとっておいた操が伽なんていわれて持って行かれたんじゃたまらないわ、冗談じゃないわ、ふざけないでよね。
ムーンの思考回路は一気に吹き出してくる怒りに耐え切れずにオーバーヒート寸前であった。目の前が真っ赤にフェイドアウトしそうなほど一気に興奮が高まり、体中の血液が顔面に集中し、めまいがした。とにかくなにか一言でも浴びせないと納まりがつかない。このまま顔面が爆発してしまいそうだ。でも興奮しすぎて舌がうまく回りそうにない、声だってうわずってかすれてヒューヒューと情けない音しか出てこない。結局ムーンは耳まで真っ赤になったまま全力で走って逃げ出した。
どこをどう走ったか定かではない。ムーンは真っ暗な自分の部屋に駆け込み、一張羅のまま寝台に飛込んで泣いた。とっておきの服に皺が付くことも、土まみれの靴でシーツが汚れることも、何もかも構わなかった。
わんわんと大声を上げて泣き叫べばずっと早く嫌な思いを振り払えるかも知れないが、ムーンはそういう感情の爆発は不得手で、ただ忍び泣いた。涙が止まらなかった。頭が真っ白になって、自分でもなにを泣いているのかわからなくなっても涙だけは後から後から込み上げてとめどなくまくらを濡らし続けた。部屋には飛び猫のアットしかいない。ムーンは誰はばかることなく思う存分醜態をさらすことが出来た。
くやしい感情が胸の奥から湧き出して喉元まで突き上がっていた。頭の中をキャリオットの台詞がぐるぐる回った。”この事は忘れてやろう”、そう言い捨てた時の奴のポーズ、顔、唇の動きまで精密に思い出せる。思い出す度にまた新たな涙が吹き出した。
態度がひょう変したからといって彼女を非難するのは筋違いである。乙女とはそういう生物なのである。愚かであると自らの理性で認めながら想い人の一言に一喜一憂してしまう。何故なら乙女とは感情を理性より上位に置く者達の総称だからである。乙女の美しさとは宝石の様に磨かれた感情の美しさだからである。愚かであることを誇る訳ではないが、愚かな選択に価値を見いだせるのである。言葉を記号と解し、突き詰めれば声帯の震動であると言及してしまう理性族にはわかるまい。乙女にとって言葉は魔法なのだ。夢を紡ぐムーン達夢使いの力よりもあるときは強大な、人の心を激震させうる力なのである。
ムーンは耐えた、鋼の剣を振るうキャリオットに、そして彼女は見事に耐え切った。しかし、言葉の剣には耐えられなかった。それが真意であるとか、裏にどういう意味が隠されているとかいうことは別次元の話題である。それを理解しようと思う以前に言葉は理性の琴線を断ち切ってしまったからである。
例えば相手が醜いイボガエルだったとしても、二人の間に通うものが一かけらでもあれば、ムーンは運命に殉ずる事が出来ただろう。今となってはキャリオット以外の者ならば誰でも許せるように思う。イボガエルが毒虫でも、ミミズでも、なめくじでも、それが優しい一言をさえ与えてくれるならば、ムーンはその物体に全てを捧げていいと本気で考えられた。
しかし運命の輪は無情に回っている。ムーンにとって絶対の運命が。ムーンに抗う術はない。ムーンには運命をねじ曲げる大罪を犯す勇気はなかった。だからただ声もなく涙を流すしか出来なかった。
窓辺で丸まっていたアットがムーンの気配に気がついて目覚めた。愛らしい牙をむき出しに、ピンクの舌を丸めて大あくびをし、その場で爪をとぎつつ背をのばした。
目覚めの儀式をひとわたり終えてもムーンの優しい呼び声が掛からないのでアットは少し不思議だった。首をかしげてムーンの様子を盗み見た。ムーンは寝台にうつぶせになったままである。
肩が震えている。鼻をすすり上げる音だけが時々聞こえる。アットは翼を広げてムーンのまくら元まで音もなくすぅっと滑空した。それでもムーンは動かなかった。アットはムーンの臭いをかいだ。しょっぱい臭いがした。アットはムーンの肩に手を掛け、もそもそと体の上に昇った。肩甲骨の辺りで一回転半し、ポジションを決めてうずくまった。アットが再び寝息を立て始めるのに時間はかからなかった。
当然ムーンは身動きがとれなくなった。毎夜の事とは言え、今日ばかりは情けなかった。飛び猫の小さな小さな脳みそでムーンの気持ちを察せよとは言わないが、こんなときくらい気の利いたことが出来ないものなのだろうか。しかし、ぴすぴすとやや鼻詰まり気味の小さな寝息を聞いていると、ムーンは優しい気持ちに傾いてしまった。
ふと、自分の悩んでいることがとても馬鹿馬鹿しいことに思えた。そうだ、なにをそんなに思い悩むことがある。
”おまえは今日拾い物をする!拾えばそのうち小さな幸福と、大きな不幸と、縁を手に入れることがあるだろうよ!”
あれは今のところ拾い物でしかない。あれを縁だと思ったのは早計だったのだ。今考えればあれは大きな不幸に違いない。そう考える方がずっと理に叶っているではないか。あれはきっかけ、いまいましいが縁を運んでくれると思えばそう邪険にするものでもない。
心が優しい方向に傾くと落ち着くのは早かった。ムーンは性根の優しい娘である。すさんだ状態を続けているのは苦しい。優しくなれるきっかけさえ見つかれば、そちらの方向に転がっていってゆったり安定するほうがずっと心地よかった。やがてムーンも寝息を立てていた。
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はい、ラヴロマンスとかそう簡単には描きませんよっと