アットが様子を伺いながら恐る恐る戻って来て、ムーンの足元にすり寄っても、ムーンは呆然としたままだった。アットがすっかりくつろいでムーンの肩に泊まり直し、珍客のために中断させられたグルーミングを再会し、くまなく全身を舐め終わって、はしたない大あくびをしているのに、ムーンは深く深く考え込んだままであった。
 聞いてしまった予言ほど厄介なものはない。遅かれ早かれ自分自身が体験することなのだから、実はなんの意味もない事なのに、予言を聞く前のそれはあまりに魅力的である。ところが聞いてしまった予言は、それからの生活に重苦しくのしかかる、全くの邪魔者に化けてしまう。
 むこうからやってくるのであればどんな過酷な運命でも受け止める自信はあるが、受動的な性分のムーンにとって、自分で運命を選択するというのが気を重くした。拾わなければ小さな幸せと小さな不幸、というのは今のままの生活が続くということなのだろうか。拾えば幸せと一緒に不幸も背負わなければならないと言う。しかもあの口ぶりでは、それはもう半端ではない大不幸らしい。

 ムーンはまだ見ない拾い物をどう始末するか必死に思案した。ものがなんなのか、それによってムーンの人生がどういう風に変わるのか皆目見当がつかないのでは、結論を出そうにも出るわけが無いのだが、そんなことにも気付かないほどムーンは狼狽していたのである。
 そのうちに日が傾いていた。食べさしのパンは切り口がかさかさに渇き、ワインはとうに気が抜けて酸っぱい臭いだけを漂わせていた。いつの間にかアットは肩の上で眠りこけていた。
 結論は出なかった。ムーンを現実世界に呼び戻したのは、洗濯物と夕げの支度であった。結局ムーンは当面の問題を無視することにした。拾い物といったって気がつかないで通り過ぎてしまうかも知れない、気がついて、それが欲しいものだったら拾う、それでいいということにした。ムーンはいつもこうやって面倒な現実をうやむやにして生きてきたのである。

「行こう、アット。」ムーンはそっとアットの耳の下を撫でた。アットは顎が外れそうな大あくびをして柔らかく目覚めた。まだ寝ぼけた余韻を残しつつ、舐めた前足で顔を擦り、翼をたたみなおしている。その間にムーンはパンの残りをバスケットにしまい、気の抜けたワインを土に返した。
 すっかり帰り支度を整えてから、ムーンは肝心の川の流れを全然見ていないことに気がついた。太陽は西の山に肩を落とし、あんなに豊かに降り注いでいた日の光もすっかり冷たい風に追い散らされてしまった。こんなに間を外してしまったら、川はただ薄ら寒いだけの存在になってしまうのだが、一度ものぞき込まないで帰るのは癪だった。
 ムーンは全くなんの気なしに川面をのぞき込んだ。それが、波乱の人生の出発点になる事を、ムーンはまだ知らない。

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 その日の夕方、村で一番若い女夢使いのムーンが男を背負って帰った。夢使いの村では事件と言えるほどの騒動は滅多に起こらないが、このときばかりは村中が大騒ぎになった。
 普段は無用な律儀さで時間を守るムーンが夕げの支度をする時間を過ぎても帰ってこないので妙な胸騒ぎを覚えた者もいた。しかし真剣に心配するには夢使いの村は平和すぎた。どうせどこかで昼寝をして、そのまま寝入ってしまったのだろう位に考えていたのである。
 男はずぶぬれで、体の芯まで氷の様に冷たくなっていた。唇は色を付けたような紫で、指先はろう細工の様に白かった。意識は全くなく、かすかな息と弱々しい心臓の鼓動だけが生きている証しであった。
 村に担ぎ込まれた時、男はズボンしか身に付けず、鍛えられた鋼のような肩をむき出しにしていた。体には無数の切り傷や噛み傷があったが、どれも古いもので当面の致命傷ではなかった。見た目は二十歳前後であろうか、やや小柄ではあるが歴戦の戦士に違いない。
 女の中でも華奢な部類に入るムーンはまさに青息吐息、自分が先に倒れてしまいそうになりながら、男を引きずって来た。その様を例えるならば糞転がし、今思えばこれが火事場の馬鹿力というものなのだろう。額に汗の玉を光らせ、息を荒げて、押し潰されそうになって、それでも必死に村までたどり着いたのである。

 村へついてからもムーンは慌ただしく動き回った。担ぎ手を交替すると空いたベッドを探して男を寝かせ、部屋の暖をとり、湯を沸かし、今にも停まってしまいそうな弱々しい心臓を助けるために湯でしぼったタオルで何度も何度も胸をマッサージした。その間にも周囲のやじ馬を叱咤して医療の心得のある者を呼びに行かせ、薬草を煎じさせ、平静のおっとりしたムーンからは想像も出来ない大活躍であった。
 実際の所、産まれて初めて死に掛けた人間を目の当たりにして大狼狽していたのであるが、それがこの男の辛うじて残っていた生命線をこの世につなぎ留めることになった。
 看病は世を徹して行なわれた。ムーンの体を心配して、マッサージを代ろうと提案する者もいたが、ムーンはがんとして譲らなかった。ムーンは村に帰ってから水を一杯飲んだだけだったし、それ以前の運搬作業だけでムーンにはオーバーワークだったのであるが、不思議と疲れは感じていなかった。それよりここで手を放してしまうと男が死んでしまうような気がしてならなかったのである。ムーンがほんの一瞬睡魔に負けて目を閉じてしまったとして、次の瞬間に男の呼吸が停まっていたら、ムーンはその罪悪感に一生苛まれるように思えた。それでムーンはまばたきさえ惜しんで必死に腕を動かし続けた。

 そして明け方。村人が様子を見に来た時にはムーンは遂に疲れ切って、男の胸に額をのせて眠り込んでいた。すーすーと寝息を立てるムーンは何を夢見てか幸せそうな寝顔であった。
 ムーンの額の下で男の胸は力強く呼吸をしていた。唇に赤みが戻り、全身の不自然な硬直が和らいでいた。
「よい夢を。」夢使い達の挨拶である。夢から力を得る夢使いにとって眠りは最も恵み多い行為なのである。ムーンが目覚めないようにそっと頭を下ろし、肩に毛布が掛けられた。ムーンは丸一日眠り、男は更に眠り続けた。


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やっと話が動き始めた

さて、ここまでついてこれた人が何人いるか…