第129号     1991年5月9日
短絡的な法主絶対論はかえって法主の全否定につながる
日蓮大聖人の仏法の原点に還り宗学の活性化を図ろう

 近代随一の碩学といわれる第五十九世日亨上人(畑毛の猊下とも呼ばれ親しまれた)は、大正十二年四月の『大日蓮』に、「血脈相承の断絶に就いて史的考察及び辨蒙」と題する一文を寄せられている。日亨上人が猊座につかれる三年前のことであった。
 この中に、注目すべき史実が記されている。それは、第十五代日昌上人から第十六代日就上人に血脈相承されたときに、「御代官理鏡坊日義」が一時相承を預かったという事実である。
 このことについて日亨上人は、同文の中で次のように記述されている。
 「十五代日昌上人は日就上人に附法すべく決定して居たるに、日就上人が其御臨終に会はざりしを以て時の御代官理鏡坊日義が一時御相承を預り申して、間もなく御登山なされた日就上人に御渡したのが事実なる事〈中略〉其日盈上人の分に、日義に贈上人するの功分を挙げて、日昌日就日盈の三代に尽せし事と血脈相承預りとを記してある。〈中略〉相承預りと云ふ事が時の不祥で出来た事ながら預主には大々功勲と見られたのである」
 相承の一時預りをした日義が後に贈上人されたというわけだ。この日義の一時預りついては、第十七世日精上人の『家中抄』において事情が説明されている。このことについては日亨上人は、同文中で次のように記述されている。
 「精師の家中抄で就師伝の下に書いてあるのは、慶長十二年に昌師が病気せられたので法弟の日就師に後住を頼まれた〈中略〉其れから二十五年目(筆者注 十五年の間違い)の元和八年卯月七日に六十一で昌師が遷化せられた、其間就師は大石寺に往復せられたであらうが、御遷化に間に合はず、十七日目の四月二十三日に本山に入院して理鏡坊日義から御相承を引継いだと何の意も無く軽々に家中抄に書いてある〈中略〉随って精師の元和八年昌師遷化と理鏡坊より相承を就師が継がれたのを史実と見ざるを得ぬ訳である」
 日亨上人は、伝えられる相承一時預りが事実であるとの結論に立たれているのである。
 日亨上人はこの相承一時預りの事実を踏まえたうえで、血脈相承についての考え方を述べられている。そして、血脈相承の儀式(法式、作法とも表現されている)と人という二つの要素から、この相承一時預りについて考察されている。
 「此点に於て血脈断絶法水壅塞の形ありと云はゞ云へるが、相承の内容に立入りて見るとき、御相承は殊に金口嫡々のは授受の型式作法に権威ありや、御当人に権威ありやと云ふ問題が起るべきであらう、而して法式と実人とは何れが主なりやと云ふ事を決定してかゝる時、若し実人に適確の権威あらば授受の作法は此を結成するの型式に過ぎざるから就師のやうな場合でも、血脈断絶法水壅塞の不都合は無い訳である。若し然らずして作法にのみ大権威存在して実人は何人でも宜いと云ふ事ならば、此場合の如きは血脈断絶の悲事となる訳である。又作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作ると云ふ事ならば、此場合は少くも法水一時枯渇の状を呈する不祥時となるであらう。此は局外者の抽象的の議論である。直に宗門教権の大事を批判すべき標準にはせぬが宜い」
 日亨上人は「局外者の抽象的の議論である」とされながらも、相承について「法式」と「実人」とのいずれが主なのかと問題提起をされ、法式(相承の儀式)のみにこだわれば血脈断絶となるとされている。
 いま日蓮正宗においては、血脈が連綿として相承されているとの立場に立つのであるから、当然のことながら、血脈断絶という論理的帰結を生ずることになる、法式・儀式に力点を置いた血脈相承観を用いることはありえない。なぜなら相承一時預かりの事実は、血脈断絶に結びつくからだ。いきおい次の二つの血脈相承観となる。
 「実人に適確の権威あらば授受の作法は此を結成するの形式に過ぎざる」との、人に重点を置いた考え方か、あるいは「作法にも実人にも相互に権威あり法人映発して法主の大器を作る」との、儀式と人ともに重要視した考え方か、このいずれかの論を選択することになる。
 ところが、この二つの場合に問題となってくるのは、第十七世日精上人のような、日蓮大聖人の教えに違背した法主についてはどうなのかということだ。実人において血脈断絶ということになる。
 結論的にいえば次のようになる。実人のみにこだわれば、日精上人や日恭上人において法水はどうなったのかということになる。儀式のみにこだわれば、相承一時預りとなった第十六代において血脈断絶となる。また「法人映発」となれば、日亨上人のいわれるように、「一時枯渇」ということにもなる。その「法人映発」という見方においても、実人の謗法といったことであれば、大きな問題が生じる。
 いまの日蓮正宗の僧の多くが囃している法主絶対論では、日蓮正宗の史実を説明することはできない。法主が日蓮大聖人の御内証の法体をそのまま受け継いでいるのであれば、当然のことながら法主は無謬でなければならない。
 この論理は裏を返してみれば、歴史的に見て法主は過ちをおこなっているのであるから、法主には日蓮大聖人の御内証の法体なるものは存在しないという結論を導き出すことになる。単純な法主絶対論は、逆に法主を宗教的に無意味なものとして結論づけさせてしまう論理性を有しているのだ。
 つまり、いまの日蓮正宗において横行している浅薄な法主絶対論は、法主の権威を全否定することに通じるのである。それを防ぐために、史実を無視した法主無謬論に執着する浅ましさを見せている。実に愚かなことである。
 日亨上人の提起されたように、人と儀式の観点より血脈相承を見た場合においても、相承の儀式がおこない得なかったこと、謗法を犯した法主がいるなどの史実を踏まえれば、絶対性一辺倒の血脈観・法主観では論理の整合性を見出し得ないのである。
 歳月を経るとともに権威化し現実ばなれしてきた血脈観・法主観を見直すときに来ている。その場合、重要なのは日蓮大聖人の仏法の原点に立ちかえり考えてみることである。
 最近横行している法主絶対論の展開の中には、まるで万世一系の皇国史観を想起させるようなものまである。日蓮大聖人の仏法が、国家神道のような、史実を無視した独善的なものであってはならない。
日蓮大聖人の仏法が世界宗教として世界の民衆の救済に臨むときに、あまりに短絡的な血脈相承論や法主絶対論がその足枷となることを危惧するものである。