第2号 1991年1月2日
令法久住を願う日興上人の御心に叛くのか
昨年12月の宗規の変更は御遺誡に違背している
昨年十二月におこなわれた宗会において、宗教法人日蓮正宗の宗制宗規が改定され、信徒の処分をおこなえる条項として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」(第二二九条五項)が追加された。
本宗において僧俗に限らず順守しなければならないものに、御開山日興上人の遺された「二六の掟」(日興遺誡置文)がある。
その中に、
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」
とあり、この一見相剋するがごとき、二箇条の御遺誡の微妙な緊張関係があってこそ我が富士門流は、七百有余年を経た今日まで、宗祖の教えを違わず伝えることができたのである。
しかるに先の宗会における決定は、本宗のしかるべき立場にある方々が、御開山上人の御遺文を公然と踏みにじったことにはなりはしないのか。
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と日興遺誡置文に明記されてある。これと、信徒の処分が可能となる事由として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」が宗規に今回追加されたこととは、明らかに相反する。規則の運用しだいでどうにでも言論統制できることになってしまった。
しかも周知の事実として、宗規の変更が創価学会対策のためになされたということがある。創価学会とは日蓮正宗の信徒の団体である。信徒であれば当然のことながら、御本尊を信じ奉っている。かかる信徒の方々と多少の行き違いがあったとはいえ、用意周到に宗規に処分条項を追加までして構えることはあるまい。
そのような法律の細目の変更に血道をあげる前に、出家の立場としてやらねばならぬことがある。まず所信をもって信徒に語ることである。もし万が一にも法衣あるいは堂宇の権威に依らなければ大衆と語ることもできないということがあれば、大衆の真っ只中に入られて説法教化された宗祖日蓮大聖人に顔向けもできまい。
宗教者としての当たり前の努力もしないで、法的な策のみに拘泥するならば、日蓮正宗の宗教としての本質的なありようまで云々されかねないし、ましてもったいなくも御法主上人の御徳すら疑われかねない。
かかる世智に流された低劣な策を、御法主上人の傍にいる者たちが、「護法」の金科玉条をかざして画したというのであれば、考え違いもはなはだしいといえる。
また「管長」について云々することが処分につながることは、宗内を停滞させることになりはしまいか。
仏法上の絶対的権威でなければならぬ法主と、宗務行政のトップとして宗政を司る管長とは、身は一つといえども、おのずからその役割は大きく違う。
歴代の上人方が「法主」としては、金口嫡々たる御相伝の上で毛筋ほどの違えもなかったことを建前としてきたことは、宗内の誰もが認めるところである。しかし宗政を司る「管長」といった役割において間違いがなかったかといえば、これまた誰人も知るところであるが、宗史に残るがごとく数々の誤りをなしてきた。
しかしこれも、御開山上人の深甚なる御遺誡の故に、その誤りを正し克服し得てきた。それ故に現在の大法興隆の時を招来したのである。
しかるに御開山上人の御遺誡に逆らい、一信徒団体を封ずるために、宗規が変えられたとなれば、本宗の歴史に拭いがたい汚点を残したことになる。
いま宗内の出家の多くが、仏意である折伏を行ずることなく、その未経験の故に硬直した教義解釈を在家に押しつけていることはあるまいか。
なかには「信徒の分際で」といった言を吐く者までいる。そのような出家の側の姿勢が、信徒団体である創価学会の反発となってあらわれたのではあるまいか。信徒の方々の発言の底にあるものに、素直に心を開かねばならない。
令法久住を願う日興上人の御心に叛くのか
昨年12月の宗規の変更は御遺誡に違背している
昨年十二月におこなわれた宗会において、宗教法人日蓮正宗の宗制宗規が改定され、信徒の処分をおこなえる条項として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」(第二二九条五項)が追加された。
本宗において僧俗に限らず順守しなければならないものに、御開山日興上人の遺された「二六の掟」(日興遺誡置文)がある。
その中に、
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」
「衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事」
とあり、この一見相剋するがごとき、二箇条の御遺誡の微妙な緊張関係があってこそ我が富士門流は、七百有余年を経た今日まで、宗祖の教えを違わず伝えることができたのである。
しかるに先の宗会における決定は、本宗のしかるべき立場にある方々が、御開山上人の御遺文を公然と踏みにじったことにはなりはしないのか。
「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」と日興遺誡置文に明記されてある。これと、信徒の処分が可能となる事由として「言論、文書等をもって、管長を批判し、または誹毀、讒謗したとき」が宗規に今回追加されたこととは、明らかに相反する。規則の運用しだいでどうにでも言論統制できることになってしまった。
しかも周知の事実として、宗規の変更が創価学会対策のためになされたということがある。創価学会とは日蓮正宗の信徒の団体である。信徒であれば当然のことながら、御本尊を信じ奉っている。かかる信徒の方々と多少の行き違いがあったとはいえ、用意周到に宗規に処分条項を追加までして構えることはあるまい。
そのような法律の細目の変更に血道をあげる前に、出家の立場としてやらねばならぬことがある。まず所信をもって信徒に語ることである。もし万が一にも法衣あるいは堂宇の権威に依らなければ大衆と語ることもできないということがあれば、大衆の真っ只中に入られて説法教化された宗祖日蓮大聖人に顔向けもできまい。
宗教者としての当たり前の努力もしないで、法的な策のみに拘泥するならば、日蓮正宗の宗教としての本質的なありようまで云々されかねないし、ましてもったいなくも御法主上人の御徳すら疑われかねない。
かかる世智に流された低劣な策を、御法主上人の傍にいる者たちが、「護法」の金科玉条をかざして画したというのであれば、考え違いもはなはだしいといえる。
また「管長」について云々することが処分につながることは、宗内を停滞させることになりはしまいか。
仏法上の絶対的権威でなければならぬ法主と、宗務行政のトップとして宗政を司る管長とは、身は一つといえども、おのずからその役割は大きく違う。
歴代の上人方が「法主」としては、金口嫡々たる御相伝の上で毛筋ほどの違えもなかったことを建前としてきたことは、宗内の誰もが認めるところである。しかし宗政を司る「管長」といった役割において間違いがなかったかといえば、これまた誰人も知るところであるが、宗史に残るがごとく数々の誤りをなしてきた。
しかしこれも、御開山上人の深甚なる御遺誡の故に、その誤りを正し克服し得てきた。それ故に現在の大法興隆の時を招来したのである。
しかるに御開山上人の御遺誡に逆らい、一信徒団体を封ずるために、宗規が変えられたとなれば、本宗の歴史に拭いがたい汚点を残したことになる。
いま宗内の出家の多くが、仏意である折伏を行ずることなく、その未経験の故に硬直した教義解釈を在家に押しつけていることはあるまいか。
なかには「信徒の分際で」といった言を吐く者までいる。そのような出家の側の姿勢が、信徒団体である創価学会の反発となってあらわれたのではあるまいか。信徒の方々の発言の底にあるものに、素直に心を開かねばならない。