本当にすばらしい人がいるとすれば、われわれはその人の前ですばらしくふるまわなければならないし、自分のありのままの姿を見抜かれては恥ずかしくてならない。それだけに、その人はこわい。その人の前で演技をしなければならない。
 しかし、真実の愛などといくら叫んでも、こちらからその人の本性が見えている時は何もこわくない。こちらの本性が相手に見えたとて、なんということはないのだから。
 われわれは、人から本当に愛されても救われるし、また人を本当に愛しても救われる。しかし、そのどちらも現実にはほとんどあり得ないことなのだ。

 誰にでも弱点はあるが、それに苦しむ人と苦しまない人といる。
劣等感に苦しむ人は、自分の苦しみはその劣等な部分が原因だと思っている。

 たとえば、太っていることに劣等感を持っている人がいる。
すると、自分の心が満たされないのは、自分の太った 身体のせいだと思ってしまう。
 他人が一瞬笑う。すると他人は満足しているのだと思う。
なんであの人たちは満足して、自分はこうなのだと腹が 立つ。あるいは落ち込む。
 自分の不満足の原因を容姿だとか、学歴だとか、財産だとかに持っていく。
そして自分が弱点と思っているものがない人は、満足して生きていると思える。
 そこで整形などをする。夢中でお金を貯める。しかし、心が変わっていないから、いつも不満である。

 自分のことを憎み、軽蔑した人は、いつも不満な人である。心が満足していない人である。
そして他人は満足していると思っている。
「いいなー、みんなは満足していて」と心の底で言っている。
 自分だけはいつも泥水のなかに住んでいると思っている。たとえ実際には清水のなかにいてもである。
そして「みんなはきっとキレイな水のなかに住んでいるのだ」と思っている。
 孤独感は人間の意欲を奪う。孤独に苦しんでいる人は何かをする気力を失う。ことに心の底に怒りを抑えこんでいる場合には、手を動かすことさえ、大変な苦痛となる。ただじっと石のように動かないでいるだけで精いっぱいにんる。まったく動かないで、心の底に閉じこめている怒りのものすごさを表現しているのである。
 孤独に苦しんでいる人は心の底に憎しみを閉じこめている。「なぜ自分をもっと愛してくれないのだ」と叫んでいる。しかしその相手を憎んでいるから叫び声をあげられない。彼が人々から好かれるためには、この閉じこめている声を外に出すことである。
 怒っている人は傷ついているのだとは名言である。怒りっぽい人、すぐカーッとなる人は、皆傷つきやすい人なのである。怒るのもいいが、「私は傷ついている」と相手に訴えることが相手との心のふれあいの第一歩なのである。