中日スポーツ杯4歳Sの日本レコード勝ちで一躍有力馬の1頭として注目されるようになったネーハイシーザーは、その後しばらく実戦を離れて調整に努め、秋は神戸新聞杯(Gll)から菊花賞(Gl)を目指すことになった。
当時の神戸新聞杯といえば、本番の菊花賞につながらないトライアルとして有名だった。神戸新聞杯の場合、日程上菊花賞まで2ヶ月近い間隔が開く上、京都
3000mコースで行われる菊花賞のトライアルなのに、例年阪神2000mコースで行われることから、条件も違いすぎている。当時菊花賞トライアルとして
行われていた京都新聞杯(Gll)が京都2200mコースで、しかも神戸新聞杯よりも後に行われていたこともあって、有力馬は京都新聞杯にまわることが多
く、一線級の馬は、神戸新聞杯に出走してくることすら少なかった。
しかし、この年は春のクラシック戦線で主役の一角を担った有力馬が、敢然と神戸新聞杯へと出走してきた。皐月賞、ダービーとも2着に入ったビワハヤヒデである。
春のビワハヤヒデは、前年の朝日杯3歳S(Gl)2着も含めてここ一番の大勝負では惜敗続きであり、一部では「早熟馬」「マイラー」、果ては「根性な
し」「ダート馬」呼ばわりされていた。だが、夏を越したビワハヤヒデは、春までとはまったく違う、というのが競馬サークルの人々の間の評判だった。
春のクラシックで主役を務めるような馬は、ダービーの後には放牧、休養に入るのが普通である。しかし、ビワハヤヒデの場合は違った。ビワハヤヒデを管理
していた浜田師は、ダービーでウイニングチケットの2着に惜敗した後、秋に同じ悔しさを味わわないために、夏も馬を厩舎にとどめおき、そこで徹底的に鍛え
ぬくという、当時としては異例の調整方法を採ったのである。夏も毎日坂路で繰り返し追われながら夏を越したビワハヤヒデにかつてのひ弱な影はなく、その馬
体は光り輝いていた。もともと3歳時から素材は一級品、と言われ続けてきた馬がついに本格化し、クラシック最後の一冠を目指して始動したのである。