塩村騎手は、1987年に18歳で騎手としてデビューした際には、いきなり33勝をあげ、才能豊かな若手騎手として将来を嘱望さ
れた存在だった。たまたま同期に69勝をあげた武豊騎手がいたために新人賞こそ逃したものの、武邦彦調教師の息子として1年目から多くの有力馬に乗る機会
を与えられていた武騎手と違って人気のない馬から乗り始めなければならなかったことを考えると、実力の差は勝ち数の差よりはずっと小さいはずである。現に
塩村騎手の勝ち数は、やはり同期であり、今や関東のトップジョッキーの一人となっている蝦名正義の1年目の数字(30勝)を上回っている。そもそも新人で
33勝という数字自体、普通の年ならば新人賞をもらっても何の不思議もない、というよりはもらえない方が不思議な好成績だった。
翌年も35勝をあげ、さらに重賞での人気馬の騎乗の機会も与えられ始めた塩村騎手だったが、その矢先の年末に、落馬事故で「再起不能」といわれるほどの
左腕複雑骨折を負い、長期にわたる戦線離脱を余儀なくされた。その後何とか復帰して、9番人気のルイジアナピットで89年の阪神牝馬特別(Glll)を勝
ち、重賞初制覇も果たしたものの、けががあまりにもひどかったことから「前のようには追えないのではないか」と思われたこともあり、騎乗数や有力馬への騎
乗依頼はなかなか伸びなかった。気がつくと、塩村騎手は毎年20勝前後が定位置の「並の騎手」になっていた。
周囲を見渡すと、目に入るのは自分が足踏みしていく間にどんどん出世していく同期や後輩の姿ばかりになっていた。それに比べて、あまりにふがいない鏡の
中の自分。どうしようもない焦りの中で、所属していた小林稔厩舎を離れてフリーになってもみたものの、有力な支援者の後ろ盾もない塩村騎手に進んで騎乗を
依頼してくれる馬主や調教師は、なかなかいなかった。レースはもちろん調教でもなかなか馬に乗せてもらえない塩村騎手は、トレセンのベンチでただ他人の攻
め馬を見るだけというつらい日々を送っていたのである。
そんな寂しげな後ろ姿に目をとめた布施師は、
「あ、この子泣き出しそうな顔で座っているな」
と思わず足を止めた。布施師自身、騎乗依頼は一度したことがあるだけだったが、塩村騎手については「乗れる若手」という印象を持っていた。だが、才能ある
若手騎手が、その才能を発揮する機会を与えられることもなく、ただ他人の攻め馬を眺めることしかできずに苦しんでいる。そんな塩村騎手の背中は、とても小
さく見えた。大正生まれの男気があり、「調教師は馬だけでなく人も育てなければならないはずだ」と考えていた布施師は、このような光景を見てはいられな
かった。
布施師は、塩村騎手に声をかけた。
「うちのに乗ってみないか」
それが、ネーハイシーザーと塩村騎手との始まりだった。