しかし、ネーハイテスコの血に秘められていたはずの底力は、なかなか形となって現れてはくれなかった。血統を買われて繁殖入りし
たネーハイテスコはネーハイシーザーの前にも5頭の子を生んだが、彼らは体質が弱かったり脚部不安があったりで、競走馬としては使いものにならなかった。
ネーハイシーザーの5頭の兄姉のうち勝ち星をあげたのは1頭だけで、それも地方競馬(南関東)でのものだった。
大道牧場の場主は、もともと「渋い血統が好み」と公言するほどであり、戦前から脈々と続くネーハイテスコの血統には期待をかけていた。しかし、彼の期待は裏切られ続けた格好である。
「もうこの血統は時代遅れなのかもしれない・・・。」
そう思いながらも、なんとか彼女の血に眠っているはずの底力を引き出したい。そこで思いついたのが、サクラトウコウとの交配だった。
競走成績はたいしたことがなかったサクラトウコウだったが、種牡馬入りしてみると、その人気はなかなかのものだった。サクラトウコウの父は、現役時代に
8戦8勝の戦績を残して伝説的な強さを誇った名馬マルゼンスキーである。マルゼンスキーは特に日高の中小牧場からの人気が高かったが、彼らにしてみれば、
マルゼンスキーの種付け料はなかなか気軽に手を出せるものではなかった。そんな中で、格安なサクラトウコウはマルゼンスキーの「代役」として、人気を集め
た。また、サクラトウコウが種牡馬入りした後、彼の弟であるサクラチヨノオーが日本ダービー(Gl)と朝日杯3歳S(Gl)、サクラホクトオーも朝日杯3
歳Sを制したことも、彼の血の底力をアピールする材料となった。さらにいうならば、当時の技術では1頭の種牡馬と1年間に交配できる繁殖牝馬の数は、せい
ぜい100頭程度だったということも、トップ級の種牡馬による寡占に歯止めをかけるとともに、いわゆる「代役」の種牡馬から思わぬ活躍馬が出ることの背景
ともなっていた。
大道氏にしてみれば、それまでの子がさっぱり走らないネーハイテスコにマルゼンスキーをつけるほどの勇気はなかったが、マルゼンスキーの息子であるサク
ラトウコウならば十分可能だった。これならば不受胎に終わったとしても損害は小さいし、生まれた子が走らなかったとしても、あきらめもつく。そんなわけで
交配相手に選ばれたのがサクラトウコウであり、翌年に生まれたのが後のネーハイシーザーだった。