おはようございます!今日もお読みくださりありがとうございます!
さて、今日もバイクで営業していたのですが、さすがに風に吹かれると寒いです!
ってことで、帰宅するなりとっととお風呂に湯を張り、少々熱めのまま、無理して浸かりました。
冷え切っていたので、熱いお湯の温度が皮膚にピリピリしますが、痛痒いのを数秒我慢、がまん☆
アチチ、と独り言をついこぼしたところで、子供のころ、母の実家で使わせてもらった、五右衛門風呂を思い出しました。
五右衛門風呂、はいった経験があるなんて言ったら、かなり珍しいかな。
もっとも、いまだに使っている家も、ないわけではないのですが。
大泥棒の石川五右衛門が釜茹での刑でなくなったのと同じような沸かし方をするので、「五右衛門風呂」。
直接、鉄の大きな釜にお湯を沸かし、適温になったところで入るお風呂です。
そのころ私はまだ幼くて、小学校の低学年か、もっと小さかったと思います。一緒に入る父や母に、底板を上手に沈めてもらって、周りの釜に触れないように、(触れると熱いので)一生懸命入っていましたっけ。
ドキドキハラハラしながら入っていたはずなのですが、思い出す今になると、なんと暖かで、幸せな気分にさせてくれる想い出なのかと、ふわ~~っと、あたたかい涙が出てきます。
こんな何気ない思い出の中に、両親や、祖父母の愛情が、たくさん詰まっていることに、今気がついたのです。
「ほら、今ならいいからお入り」
湯加減を見て、声を掛けてくれた、今は亡き祖父母。
「それっ、いいよ、今だよお入りよ」
底板を沈めて、子供の入る場所を作ってくれた両親。
あの頃は、まだ両親も、うんと若かったなあ・・・・・・。
今も健在でいてくれる、このありがたさ。
熱いお風呂に入って、皮膚の感覚から思い出した、一連の五右衛門風呂の想い出に、深いところに刻まれていく子供のころからの記憶に、畏敬の念を覚えます。
お風呂に入った時の熱いお湯に触れる皮膚感覚が、五感の思い出が、こんな風に幸せな気持ちとともによみがえるならば、一生その人は幸せでいられるんじゃないかとも、思えてしまうのです。
五感での経験は、強烈に深い意識に刻まれていくようです。
こうして何かの折に思い出し、蘇って追体験していくなら、幸せな思いでならこのように、また幸せを、天の恵みを、自覚していく材料となっていくのでしょう。
もし、それが幼いころに悲しい思い出と結びついてしまったなら、苦い思いをそのたびにするのかもしれないし、私も思い当たることは少なくありません。
でも、生きている限り、それをもういちど書き換えて、だからこそ、今度はこうしたいという願いを発していくことも、平等にどの人にも、与えられているのではないかとも、思うのです。
楽しいことも、楽しいばかりではつまらなく感じるし、つらいことも、いつまでも永遠に続くわけではない。
ひとつ、またひとつと、新たな学びを得られたなら、それでいいんじゃないかと、思うことでした。
なんと、五右衛門風呂の暖かさとともに、こんなことまで話が広がってきましたが。
では、続きはまた次回に。
今日も、いい日(^^)