夏の魔物とTHE夏の魔物(これ以降ユニットの夏の魔物とTHE夏の魔物を合わせて魔物と表記します)及び鏡るびいを意識的に追いかけたことは、短い人生の中で消極的な自分にとって初めてのことだった。

最初に認識したのは、リリスクが出るフェスとして名前を見てそのあと曲を出してることを知った。当時は京都に住んでいて情報だけだったけど、東京に戻ってきて初めてライブに行った。

新宿MARZでP.O.Pとかとの対バンだったと思う。初めて見たとき、成田さんはなんでこんなに目が死んでるのにかっこいいんだろうなぁと思って一発で好きになった。

そのちょっと後のasiaでのライブくらいからなんとなくマモチル(当時はそんな呼称なかったけど)のコミュニティに入っていって、人生で出会った中で一番頭おかしい人が居るコミュニティだな(めっちゃ褒めてる)って思って、魔物に通うことがライブとそのコミュニティと二つの方向から楽しくなっていった。

そこから数か月してブラックDPGが活動終了して、みやここさんとメトコさんが卒業して三銃士が残る形になった。この時のFACEのライブは俺が行き始めた時点ではもうあんまり来てなかった古参の人たちも来てたり、ライブの様子がMVって形でつべに上がってて(確かSUNSET HEART ATTACK?)うまく客席を写さないようにしてたけどだいぶガラガラだったりしたけど、個人的にはそういう現場が好きだっていうのもあってめちゃくちゃ楽しかった。

この時まで、魔物好きになるきっかけは成田さんだしヤチさんとチェキ撮ったりしてたけど、明確に推しが決まってはいなかった。

ブラックの活動終了の同時期くらいから新メンバーオーディションが始まった。

この時期くらいから自分の中で何か変えたいって欲が出てきて、今までやってこなかったことをやろうと考えて、なにか一つの物をとことん追いかけてみようって思った。一つの物を無理やりにでも追いかけたら自分の中で何か変わるんじゃないかっていう、自分を使った人体実験に近いものだった。

そんなことを考えてる中で、顔隠してレッスンしてた写真が上がって、その中に縦ロール(その時はそう呼んでた)でTheWhoのTシャツ着た人が居て、この人にしようって決意した。

もちろん今では、いろんなファクターを含めてるびいさんが好きだし推しだと思ってるけど、最初にるびいさんを推し始めたきっかけは魅力的だったとかじゃなくて、完全に前述した自分が変わりたいからっていう自己中心的な考えからだった。

このブログ書いてるのは、この『自己変革のために推しを消費してる』ことに対しての贖罪の意味が一番重いです。確かにるびいさんを推してて救われたこととかはいっぱいあるけど、きっかけはこういう理由だし、今もその気持ちが強くあることはずっとモヤモヤしてた。誰かに許してほしいとは思ってないけど、このモヤモヤを吐き出したかったってことだと思う。

だからこそ、俺は一度もるびいさんを100%の気持ちで『応援』したことは無くて、ずっと『消費』してるって気持ちの割合が強かった(本人には応援してるって言ったことはあるけど)

 

加入後すぐのTIFとか車で無理やり青森まで行って朝一番にこけて足ぐねって一日中ダメージ引きずったり、女子メンバー全員にケツ蹴られたりした本祭とかもめちゃくちゃ楽しかった。初めての生誕はそれ以降もあんまりないくらいパンパンの会場だったし(俺は生誕準備はなんにもしてないけど)、LADYBABYとの対バンでのダイブとスクリームは今のるびいさんのある種の方向性を決定づけたし、俺のおかげ(ドヤ顔)で推しを地上波にねじ込んだりできたし、今の病気についてのあれこれとかあったし、それ以外も良いこと悪いこと含めてめちゃくちゃいろいろあったけど、とにかくずーっと楽しく『消費』したなぁって思ってる。

なんでこんなブログ書いてるのかの二番目に重い理由は、多分東京に戻れなくてこれからライブ見る機会がめっちゃ減るからいろいろ思い出して記録しておこうっていうものです。東京に戻れなくなる理由は物理的に遠いのとシンプルに金が無いってことだけなので二兆円あったら速攻東京戻って全ライブ行き倒したいとは思ってるし、今の魔物が嫌いになったとかの理由ではないです。鏡るびいの物語の結末を見るまではずっと見続けていたい。

ヲタク卒業します宣言をする人に、わざわざ宣言する必要ある?って思ってたけど、自分の中の区切りをつけたいってことだったんだなと改めて実感する。俺はヲタ卒しないし行ければめちゃくちゃ行きたいけど。でもるびいさんが卒業したら卒業すると思います。

 

ここからは完全に余談だけどこのブログを書いた三番目に重い理由は、二番目の理由に付随する部分もあるんだけど、『俺は魔物の楽曲そのものに関してはそんな好きじゃない』って気持ちのモヤモヤを晴らしたかったからです。良い曲だと思ったことはあんまりないし、ライブの空間はめちゃくちゃ好きだけどライブ以外でじっくり聞くこともほとんど無い。ライブはフロア自体の楽しさと、鏡るびいの物語がどう進められるのかを楽しむって感じで、楽曲をじっくり楽しむみたいな心持ちではない。だからこそわちゃわちゃしたりするのを楽しんでるんだろうけど。

 

こんなブログをわざわざTwitterに連携して、しかもタイトルにエゴサワード入れてたりする自分の承認欲求がなかなか醜いけど、読んでほしいって思いが後半にかけて出てきて、読んでもらう前提の文体にちょっと変わった気がする。

自分の記憶とTwitterとネットニュースをもとに書いてますが、間違ったこと書いてたらすいません。

約10年前にほとんどすべてを置いて実家を出ざるを得なかった時のことをよく思い出してて、そこでアーカイブしていたものがほとんど失われてしまったから自分からオタク的性質が抜け落ちて性格が変わったと思っている。

二か月間入院してた時、人生で一番死に近づいた瞬間だったはずなんだけど正直あんまり死の恐怖を感じていなくて、それは病状がわかりづらかったっていうのもあるだろうし、恐怖から目をそらして現実を観ていなかったっていうのもあると思っていたんだけど、今日ふと、あの10年前に俺のアイデンティティとか人格みたいなものが一度死んだんだなって感じて、だから肉体的な死に対してあんまり恐怖を抱かなかったんだなと思って、なんだかすごい悲しくて辛くなってしまった。

肉体の死はもうそこで終わりでそこから先は存在してないからある意味何も感じないんだけど、アイデンティティが死んでそれを認識した時、とんでもない切なさに襲われるって知った。

失ってしまってこれ以上取り戻せないっていう感覚が強い。あの頃の漫画達をすべて集めなおしたとしてまた復活するのかと考えるとあんまりそうは思えなくて。もしかしてあの後すぐにすべてを取り戻していたならあるいは変わっていたのかもしれないけど、失われてからあまりにも時間がたちすぎている気がする。

アイデンティティを外部の存在に託していて、それが失われてしまったことでアイデンティティが死んだ。それでも生きながらえ続けている。

オタクは大なり小なりそういう外部の存在に自分の存在意義を託しているものだと思うんだけど、昔のオタクもそうだったのかな。

これから先どうすればいいんだろうとも思うけど、もう答えというか結論は出ていて、自分がどうにかして変わるしか方法はない。それができるかどうかが問題なだけ。その問題に目を背け続けても生きていけるだろうっていう確信に近いものもあったりする。それで10年近く生きてきたわけだし。

もしかしたら約2年前にした、金がないとか言わずにとにかく行動しまくるっていう実験は、この問題からどうにか向き合おうとした無意識の発露なのかもしれない。

この10年間を考えてみると、結局のところ俺に残されたのは、性欲だけだったなぁと思う。

ビフォア・サンライズの続編。半年後二人が出会ったのかも知らずに見たからより楽しめたと思う。

ほぼ全てのシーンが二人の会話だけで進んでいてしかも途中カットで時間が飛ぶことがほとんど無くて、映画の中の経過時間と鑑賞時間がほとんど同じ。しかも場面が4つか5つくらいしかないし、二人が歩いて話してるか座って話してるかの違いしかなくてほとんど画変わりしない。ただ、船に乗る前と船に乗ってからは物語のドライブ感が増すと同時に画変わりも増えてるような気がする。


オープニングで二人が再会するところから最後までずっと切ない空気感に溢れてて、それはユーロが導入されて社会が変わっていくように二人も変わっていってて時間は進んでしまってあの夜には決して戻れないっていう空気感が映画を支配してるからだと思う。

ただ途中で「思い出は変えられる」って台詞で示されてた通り、二人の現在の出会いによってあの時は失われてしまったけども思い出は変えられていったのだと思う。