新撰組近藤勇の墓地から車で一般道を小一時間

南下して、14時に南会津郡の大内宿へ到着🚗


福島県南会津郡下郷町大内「大内宿」

田畑は一面雪に覆われていました。

江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な

道の宿場町だったのが、ここ大内宿です。

(大内宿公式HPから引用)


現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並び、この景観を引き継ぐために店舗兼住居として生活しています。

現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の

民家が街道沿いに建ち並び、この景観を引き

継ぐために店舗兼住居として生活しています。

ススキで出来た茅葺き屋根に歴史を感じます。

お店では、工芸品や地元の漬物などを販売して

いるお店が多く、他には茶店や蕎麦屋さんが

ありました。


蕎麦はネギを箸代わりに使って食べる

「ねぎ蕎麦」が有名ですが、今回はパス。

縁側で外国人観光客が注文したねぎ蕎麦を

見かけましたが、食べ方が分かっていなかっ

た感じでした。

大内宿の最奥部の山の上から宿場を一望。

少しですが雪国の冬の大変さを感じる事が

出来た気がします。


道の両脇に治水工事で完成した水路があって

野菜を洗ったり生活水として使われていた様

です。大昔は道の真ん中に一本の水路で形成

されていたそうですが、近年になって両脇に

修繕されたそうです。

山々に囲まれている大内宿。

かまくら⛄️

江戸時代以降の大名や旗本しか泊まることが

許されていない「本陣」を見学しました。

現在は当時の農耕具や生活道具が展示されて

いましたが、居間だけは囲炉裏があって当時

の雰囲気が少しだけ残っていました。


茶店屋さんでいも餅を購入しました。


見た目はよくある焼き餅みたいですが、

ジャガイモを擦って片栗粉と餅で団子に

して焼いてあり、焼き餅より柔らかく

芋の風味がありとても美味しかったです。

後で調べたのですが、いも餅は郷土料理で

北海道、東北、岐阜県、高知県が有名みたい

です。隣県の岐阜県でも五平餅は有名ですが

いも餅は知りませんでした。とても美味し

かったです。


帰りに御朱印ならぬ「御泊印」を購入して

大内宿を後にしました。



これで6日間の東北の旅を終えるのですが、

最後に南会津郡内の「塔のへつり」へ向かい

ました。

大内宿から国道121号線を20分移動して

塔のへつりに16時過ぎに到着。


駐車場のお土産屋さんは16時に閉店しました。

閉店後の駐車場に駐車して、絶景ポイントへ

歩いて行きました。

百万年の歳月をかけて岩肌が侵食と風化を繰り

返してえぐれた部分を人が歩ける様になった
景勝地だそうです。

しかし残念なことに、橋の老朽化の修繕工事の

ため4月まで通行禁止になっていたのでへつり

部分へ渡って歩くことは出来ませんでした。

諦めて駐車場に戻ると反対川には川幅100mで

水量が多く流れの強川が流れていました。

東海地方ではなかなか観られない景色です。

東北の自然恐るべし。


夏頃には山藤と岩肌で綺麗に観えるそうなので

また今度来てみたいと思いました。



国道121号を南下して福島県ともお別れして

栃木県入り。

このトンネルは2年前に日光東照宮観光の

宿泊地だった湯西川川温泉に続く道でした。


2年前はこの道が会津に続いているんだ、

とぼんやりと思っていましたが、まさか

2年後にこの道で会津から帰ってくるとは

思いませんでした。


この後、鬼怒川温泉街を抜けて道の駅日光へ

到着。ここで最後の車中泊をして明日の朝

愛知県に帰ります🚗





白虎隊自刃の地から車で5分

松巌山正法寺から徒歩で山を登りました。

残雪が多く、また雪が溶けている場所も笹木

が雪で倒れて道を塞いでいました。

なので道なき道をGoogleの航空地図上のGPS

を頼りに迷いながら急斜面の登っていきました。

急斜面を登ること20分、ようやく辿り着き

ました。

お墓を写真に撮ることがマナー的に気には

なりましたが、せっかくここまで来たので

少しだけ撮らせて頂きました🙇🏻‍♂️

右が新撰組の局長近藤勇のお墓です。

そして左のお墓が五稜郭で防戦したのち戦死

した土方歳三のお墓です。

京都の三条河原で斬首されましr。その後の首の

行方は正式に確定されていませんが土方が近藤の

遺髪を会津に持ってきて埋葬されたといわれてい

ます。激動の幕末を駆け抜けた35年の人生でした。


会津若松城から車で10分

白虎隊が自害した場所に行ってきました。

結構な階段が続きます😅

画像の右側は昇り用のエスカレーター。

ひとり150円。ケチって階段登りましたよ。

しんどいけど、せっかくなので自分の足で

歩きたいのです🚶


登りました🙂

戊辰戦争(会津戦争)で会津藩が16から17歳で

組織された少年兵部隊が白虎隊です。

戸の口の戦いで敗れて、ここ飯盛山で自害を

決意した悲しい歴史です。

白虎隊自刃の際に唯一生き残られた飯沼貞雄翁

のお墓です。当時のことは余り多く語ることは

なかったそうです。僕が思うに語ることが出来

ないのかと。簡単に言葉にできるものではない

のかと思います。


落城しそうに状況の鶴ヶ城(会津若松城)を

見ている白虎隊兵士の像。鶴ヶ城から上がる

煙を見て、仲間のいる城に戻るのか?

敵陣に突撃するのか?隊で激論した結果、


「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような

 ことがあれば、君主に対して大変申し訳な

 く先祖に対しても申し訳ない。この場は潔

 ぎよく自刃し、武士の本文をあきらかにす

 べし」


16、17歳の若者が決断できることではない

ですね。本当に悲しい歴史です。

自刃されて命を落とした若き19名のお墓です。

前にも書きましたが、これが明治時代になる

ほんの少し前の出来事だと思うと本当に悲しい

気持ちになります。

猪苗代湖西湖の戸の口から会津盆地まで

水を引く用水堰で全長31キロにもなる。

戊辰戦争で戸の口で戦って敗れた白虎隊20名

が潜った同穴です。

戦国時代の戦いはお互いの領土のために戦う

「国取り合戦」のイメージがありますが、

幕府末の旧幕府軍、新政府軍は互いが日本を

良くしようという思いで争った様に思います。


今の日本があるのも、この頃の人達のおかげ

かもしれませんね。


今の生活に文句なんて言ってたら、バチが

当たるかもですね。


いろいろな感情を抱きながら、このあと

新撰組組長、近藤勇のお墓に行ってみます。


(続く)