どぶねこ小屋

どぶねこ小屋

さて、なにしましょかね

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今年



6月に新しい運転手が入ってきたのだが、古参に対して自分を認めてほしい願望が強いのか、何かにつけて率先して仕事をしようとする





我々が経験から「こういう風にせよ」という指示に対して「こうした方がよくないですか?」と口答えをする





別に先輩風を吹かせる必要もないので、そう思うのなら思うようにすればいいと、やりたいようにさせるのだが、結果その作業に掛かり切りになり、他の作業が滞ることになる





早い話が、古参に対して自分の優秀さをアピールする訳で、大型免許を持ってはいるがトラックに乗り始めて半年も経ていないのに、まるで何十年もトラックに乗ってきたような大言壮語をする訳である





大型免許を取得して、まだ半年しか経ていない未経験の新人をいきなり舞鶴まで単独で大型を走らせる運行管理者のセンスを疑うところなのだが





どこの会社にも、どこのグループにも居るのだが




上の人間が、個人的に気に入っている人間を会の中心に据えて、一部の人間がやりたいことだけをやるようになる





組織が官僚的になってゆく典型的な現象である






言うことを聞かせることが、人を育てる最初の一歩ではあるが、何でもかんでも服従させればいいというものではない





あからさまに他人の邪魔をしていること以外は、やりたいようにやらせればいいとは考えている





他人の邪魔をして利己的に仕事をする娑婆塞げな輩を「個人の自由」と嘯いて弁護すると、結果的に当該する人間を甘やかすことになり、その人間を真っ当に導くことにはならない





自由には「責任」が重くのし掛かってくる




責任のない自由は暴走する






仲良しこよしの集まりが世論を作るのだが、会が巨大化すると、あるグループにとって都合の悪い人間を排除するようになる





排除された人間が独自のグループを持っているとすれば、それが派閥となって対立するようになる





このため派閥の枠を超えたリベラリストの存在が必要となるのだが、リベラリストは派閥が吐き捨てた無責任の塊を掃除しなければならない





大局にいる派閥は、そういう人間を社会の底辺とみなして冷徹で横柄な態度をとる





ならば、わざわざ損な役回りをしなければよいのだが、それでは人の世に「道」というものがなくなってしまい秩序が失われてしまう





上に立つ人間には、対立する会派に紛争が起こらないように両者を平等に対応する大局眼が必要となるが、往々にして何もしない





尤も、争いを鎮めるために調停に入ることで別な会派には特定の会派だけに肩入れしているように映ってしまい決して平和が訪れる訳ではない





そんな閉塞感のある社会にあって人を育てるということは、対応する人間が実直に行動する以外に着実な方法はないのである








僕は言葉がキツイので、ずいぶん誤解されているだろうし、僕を嫌っている人間は多いだろうことは充分理解している





けれど





人の道を外れた行為をしない限り、個人的にイライラしているだけならば、その場を即離れることにしている





僕が声を荒げることがあるとすれば、著しく他人に迷惑をかけている人間に対してだけだと思う





ケダモノに対して釈迦の説法を聴かせたところで何の意味もなく、言葉の通じない人間に言葉で対応する意味はない





哀しいかな人間は生まれながらにして腐敗してゆく生き物なのである





それを互いに言葉を交わすことで輝きを取り戻させることができる珍しい生き物なのである





しかし、人の言葉を騒音としてしか聞けない人間には腐敗する心を浄化する能力がない






屍は、見る見るうちに腐敗してゆく




生きたまま腐敗している人間は生きる価値がない






人を育てるということは、腐敗する時間を少しばかり引き戻す作業だと思う





言葉の通じない人間に言葉を求めるほど、世の人間には時間は残されてはいない