どぶねこ小屋 -2ページ目

どぶねこ小屋

さて、なにしましょかね


親父の初七日の法要が行われました






5年前に、真言宗から浄土真宗に宗旨替えをして初めての葬礼だった訳ですが






仏事に関する一切合切が、真言宗とは真反対の習慣であることに戸惑いを隠せません





納棺の際、父方の爺様が死んだ時には額に付けていた「天冠」を最近は見ないと葬儀屋さんに申しますと、浄土真宗ではそもそも天冠は付けないと言われました





それだけでなく、浄土真宗では旅装束としてお棺に入れるあらゆるものを本来入れないと言われました





お焼香をあげる際も、お香を拝んではいけないと言われたり、清めの塩を撒いてはいけないと言われたりしました





また真言宗だからという訳ではないらしいのですが
伊予三島の風習として、故人が使っていたお茶碗を割って玄関前に放置してきました





父方の婆様の葬礼では、確かお棺の中に入れたと思うのですが少し失念いたしました





それも浄土真宗では、故人を追い出す行為だからということで、してはいけないと言われました





お線香は立ててはいけない






お盆の精霊馬は、真言宗特有の風変わりな作法なのでする必要はない








僕の家族は、僕が物心ついた頃から真言宗の作法で仏事を行ってきました





法事の際に、酒見寺さんが聞かせてくださった法話によると、真言宗は言わば多神教であり、世に吹く風のあらゆる事象は幾百万の御仏の心だという





僕も、知らず知らずのうちに弘法大師の教えに感化されてきたらしく、これまで普通に真言宗の習慣に従ってきたのです





それは血に染み込んだものなので、それをあたかも穢らわしい邪宗門の習慣だから改めよと言わんばかりに直されるというのは如何なものでしょうか





まるで父や、父方の先祖が連綿と受け継いできたものを無下生に全否定されているようで戸惑いを隠せないのです





故人のお茶碗を割って玄関前に投げる風習は、死者を送り出すにあたって、他の亡者や餓鬼といった不浄のものを家に招き入れないためにするものであり、迷信の類だと教わりました





だから婆様の葬礼の際には、骨上げの後に、そういうことをしなかったのだと思います








親父は



宗派に対して、愚鈍なくらい寛容な人でした






宗旨替えしたのも、お袋の従兄弟が東本願寺派のお寺さんなので礼金などの点で助かるからです





だからといって空海さんへの尊敬を捨てたわけではありませんでしたし、他の宗派に対しても理解をしようと毎月購読している宗教雑誌がありました






宗旨替えした時も「我が家は仰山の仏様に守られてるから幸せや」とケタケタ笑っていたものです





真言宗酒見寺の住職が教えてくださった法話によれば、日本人は古来より宗教を振りかざして戦を仕掛けたことがなく、新しい宗派や何ならキリスト教さえも状況に入れて信仰してきた珍しい民族なのだそうです





宗派による習慣の違いを、さも重箱の隅をつつくようにあげつらう必要などないのではないでしょうか





南都仏教や、比叡山、高野山が、ともすれば権威主義的になってしまっていた末世にあって、浄土真宗は必ずしも古来よりの習慣に従わなくてもいいというのが本来ではありませんか?





従わなくても構わない、ということと従ってはいけないとでは天と地ほども違います





それは本末転倒というものです








どうも釈然としない



喉に何かが引っかかっているようなお葬式でした








僕のお葬式には坊さまはいりません



ただ2本だけ、お線香を上げてください




後日争いを生みかねない戒名もいりません






ただなんとなくでいいです






小谷の城山の麓にある我が家のお墓に入れてくだされば、それで充分です





あの世に行ってまで、人と争いたくはありません