一応、ここで用いる「不登校」について定義しておきます。
「不登校 学校に行くという作為を止めて学校に行かないという不作為を選び、それが継続している状態」
今適当に考えたものですが、まあ、文字通りです。
さて、定義が終わったところで本題に入ります。
不登校問題について考えるとき、どうしても、不登校であるという子どもの現状を何とかしようと、子どもの現状を「登校」という状態に持っていく方向に努力しがちです。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
子どもがなぜ学校に行きたくないのか。
いや、不登校になる前(学校に行っていた頃)から、子どもは何らかの学校に行きたくないという思いを持っていて、それが、不登校という形で目の前に現れたわけですから、いつかの時点で子どもは学校に行くことに負の感情を持ち始め、それが増加していき、最終的に我慢の限界が来て不登校になったのだと言えます。
我慢の限界をー100とすると、0からー5、ー10とだんだん心のマイナス数値が増えていきながらも我慢して登校していたけど、最終的に我慢の限界ー100になったから不登校になったといえます。
したがって、子が不登校になったから、再度、登校させることを目的として親が何らかの行動を取るというのは、直接的には焦点が子どもの心情に当たっていないことになります。
子どもが、なぜ学校に行きたくない、行けないのか。
親が不登校問題を考えるに当たっては、その子どもの心情の理解が、まず先にくるべきではないでしょうか。
もちろん、ずっと0だったのに、例えば、たまたま体罰教師に当たってしまい、一気にー100になってしまったようば場合などは、外的要因による不登校である公算が高いので、そのことを学校に相談する、調査依頼する、抗議するなどの対応が相当でしょう。
しかし、そういう明確な事情がないけど、徐々にマイナス値が増えていってー100になったような場合、不登校の原因が本当に外的要因によるものなのか判然としません。
いじめられているような場合はまだ外的要因として分かりやすいところもありますが、クラスに溶け込めなくて疎外感を抱えているといった場合、子どもの心情に焦点を当てないといけません。
しかし、
クラスに溶け込めず疎外感がある → じゃあ、その疎外感をなくすようにクラスに溶け込ませよう
という発想は、一応大事ですが、子どもの自尊心が低い場合、そういった小手先の対応では意味がない場合があります。
自尊心が低いままでも、うまく気が合う友達ができて、クラスに居場所ができればいいのですが、それも違うなという場合、別のことを考える必要があります。
子どもの自尊心が低いから、子どもの自尊心を高めようと、子どもに焦点を当てようとする親の動きは的外れです。
なぜなら、子どもは親を見て育ってここまで来たからです。
つまり、子どもの自尊心が低い要因は親にあります。
だから、子どもの自尊心を高めていこう、取り戻していこう、
このように考えるのであれば、親自身の自尊心をまずは回復して、その姿を子どもに見せていく必要があります。
だって、親の自尊心がめっちゃ低いのに、子どもにだけ自尊心を高く持とうみたいなことを言ったって白々しくて聞いていられないでしょう。子どもは。
それに、どうやったらいいのかも分かりません。
自尊心が低く、不安を隠しているだけの親が、こうやれば、とか、こうすればとかいう言葉だけを聞いたところで効果があるわけがありません。
自分を子どもに置き換えてみたら分かるのではないでしょうか。
むしろ、腹立ちません?
いや、実際、あなたの親はそんな風じゃありませんでしたか?
自分を棚に上げて、ああしろ、こうしろ、こうじゃなくちゃダメだってね。
当時は分からなかったけど、今思えば・・・・
だから、まずは親自身の自尊心を回復させるのが先なのです。
そしてその方法は、母親問題に向き合うよりほかにありません。
なぜなら、あなたの自尊心を低くしているのは、母親との過去の記憶の積み重ねだからです。
そして、その記憶は、幼少期であり、かつ、全能であると思っていた人との記憶なので、表面的には分かりにくいけども、強烈な記憶としてあなたの脳内の根底に、強烈な怒りや苦しみや悲しみと共にしっかりとこびりついているので、しっかりと適切な方法で解きほぐしていく必要があるものです。