2024年(令6年)  7月24日 (水) 天気(晴)

 

 

きょうは、上ノ加江集学校へパソコンを習いに行く。

 

 

終わって、上ノ加江灯台に行きました。

 

暖かい南東の風が吹き、前方は見えにくい。

 

 

大海原を見て、少年達は夢を見たことだろう。


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昭和61年1月30日発行

        中土佐町史 より

 

 上ノ加江湾は開口部が東北にあり、三方に山がめぐらされているため、南東の影が強い台風時には古来からここに避難する船舶が多かった。しかし開口部が過大であって激浪の被害を被ることが少なからずあり、また上ノ加江川より流入する土砂のため湾内の水深が浅くなって船舶の出入に害を与えることもあったようである。これに対して上ノ加江の住民は港開鑿の必要をかねてから県に陳情しており、その早期の事例を明治22年(1885)に知り得るが明治末年になると陳情の動きが急になり、一方高岡郡漁業協同組合も明治43年に、久礼、宇佐、与津とともに上ノ加江港を避難港として修築することを県知事に建議した。これを受けて県は同年中に調査を行っているが、大正2年(1913)になると永井知事が西部港湾視察の一部として上ノ加江を訪れ、次いで県議会に上ノ加江港修築を提案、県議会議員の実地視察を経て可決された。

 

 

 認可された修築工事は、釜ヶ窪池を補修して湾に連結せしめて内港となし、内港に続けて防波堤120間を海中に突き出して湾口を狭め、湾内を浚渫して外港となすものであった。さらに夜間の航路標識のため防波堤の先端に灯台を建設した。工事は翌大正3年5月17日に着工し、大正6年6月7日に完成した。総工費は8万 916円であったが、うち2万円の地元負担をン命ぜられて捻出に苦しみ、郡の補助5,000円を得てやっと義務を果たしたという。 

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         釜ヶ窪池(通称 池という)です。

 

 

昔の人は、苦労しているね!

 

 

以前から池のことを書きたいと思っていました。

良い日和だとよかったのですが