最近Twitterで昔々(と言っても5,6年前とか)にやっていたラジオでよくよくハンドルネームを聴いていたオタクのアカウントをたまたま発見した。その人は例のラジオが初の持ち番組であったとある声優をずっと追い続けた人だった。その人はブログを書いており、その内容は良くいうと彼女の能力を的確に評価したうえであれこれと深い考察を述べていたし、悪くいえば彼女に対してのおせっかいでもあった。

この人は第三者目線では明らかに、彼女がメインキャラを獲得し大成する前から彼女の能力に期待し、売れる前からの彼女ことを見続けてきた1人と言って差し支えない。例のラジオでも毎回のようにハンネを聞いていた。彼女が声優として評価を勝ち取っていく過程をリアルタイムで見続けてきたはずだ。だが、あるときからパタリとお便りがラジオで読まれなくなったのだそうだ。この人が回想するように彼女にとってはこの人のお便りがおせっかいじみたものに感じられたのだろう。人によると思うが、オタクは思い入れがあればある声優ほど何か自分から声をかけたくなってしまう傾向にあると思うし、この方には分析もそうだし言語化能力がありすぎたがゆえの葛藤もあったのではないかなと勝手に推している。


さてここからは自分語りのパート、自分が今追っているような声優に目を向けてみる。今自分がよくイベントを行くような声優の方々は皆、2026年7月時点で10年以上活躍されているような方でそのうち自分がリアルタイムで見ているのは2年とか長い人でも3年弱といったところだ。当然それまでに皆メインキャラを獲得し、ほぼ全員アーティスト活動もなされているとそういうような方たちである。当然、彼女たちに惹かれていく中で、過去彼女たちが演じた作品や持ち曲や映像・ラジオコンテンツが大きな役割、というかほとんどの要素を占めている。ここで大事なことはこれらのコンテンツは「自分がいなかった時のもの」ということである。「そのコンテンツが作られた世界に『自分』はいない」のである。

これは曲解かもしれないけれどもつまり、自分が存在していない状態が正しいということ。しかし、そこに回収したいと思う曲があるにも関わらず、自分が存在できないのは全くもって相容れない。でも、演者…彼女たちが自分の存在を認識していなければ、自分はそこに存在して曲や演技を享受しているがしかし実質的に自分は存在していないことになっていると言ってもよいだろうと個人的に結論づけている。

このことに気づいたのは3カ月前(2026/05)ぐらいだろうか。もう少し早く気づけていればと感じる。そして別に自分が全肯定オタクでいられるなら、こんなことを考えなくてもよかったはずである。しかし、例を挙げるとライブでの曲披露とかは一気に心を動かしうるものであり、これは負の方向も例外ではない。そもそもそれ以上に思ってしまったことはまぁまぁ言いたくなる性格だからもうそうなると裏に隠れてこそこそと生きていくしかないのかなと。だからこそ、こうして文章にしているわけだし、最初に挙げた方と似てるところがあるのかもしれない(笑)←それは失礼だろ()

閑話休題、これは我儘なのだけれども、最近ライブ終わりにお見送り会みたいなのやる方が結構いらっしゃるんだけどあれって本当にどうすればいいんですかね?CDとかのお渡し会とかリリイベのサインとかは個人的に行かなければいいだけですし、僕が行かない分本当に行きたい人が行けるので良いんですけど、ライブ終わりのお見送り会はライブ終わったらそのまま全員参加することが前提で組まれてしまっているので…

1回別に特に急いでもないのにお見送り会待たずに抜け出そうとしたらスタッフの方が困惑しつつもわざわざ自分のためだけに退出ルート作っていたことがあってそれもなんか申し訳ないという。誰か答えをください。

追加で本音を言うとお見送り会やる時間あるならその時間で追加で曲やってほしいと僕は思ってます。好きな曲とか歌声聴きたいし、好きなパフォーマンスを1秒でも長く見たいんですよ本当に。

そしてここまで書いておきながら、心の何処かで2名の声優にはいつか直接ありがとうって言いたいなとも。3年後か5年後かはわかりませんが。少なくとも大学生の間はこのスタンスを変えずに行くつもり…けれども、社会人になったら自分もどこかまた変わるのかもしれないよなぁとも思っています。