政治経済の先生が好きでない。やたらと外国語を使う。
この間も現行犯の解説のところで「こういうのはディテクティブ的なものによく出てくるな。」
コナン見てなかったらわからなかったから。どうして素直に推理小説と言えないものか。
初めて気づいたのは昨年夏休み。人口増加の話をしてたところで出てきた言葉。
「それはバースコントロールすればええやないか。」
Birth(出生)Control(調節)ですか。素直に受胎調節とでも言えないのかと。
日本語が好きなんだろうか。それとも、単純に自分の分からないことを言われて反発しているだけ?
けれど、日本語で済むことをわざわざ他の国の言葉で言うのは、どうしてああも自慢げに聞こえてしまうのだろう。
彼とそのことを話していた。私は日本語が好きなんだろうって。でも、見て見ぬ振りしていた痛いところを突かれた。お前もカタカナ語使っているじゃないかって。
ただ、私の中ではやっぱり違う。結局、ニュアンスの問題に落ち着いた。
昨日、友達と英語の話をしていた。英語の意味・言葉の方が浸透しすぎて、訳すに訳せない言葉ってあるよねって。
例えば、communicationとか。「意思疎通」と訳しても、どうもしっくりこない。逆にコミュニケーションの方が合う。訳をする度に矛盾を感じるんですよ。
とかとか、そんなこと考えてるとやっぱりニュアンスかなって。ほら、ニュアンスとか。
日本語にあまりにも浸透しすぎているものって、やっぱり使わざるをえない。意思疎通より先にコミュニケーションという言葉で伝える手段を得てしまった私たちは、サブ的な代替手段を日常的に使うことは難しい。
communicationはcommunication以外の何者でもないし、代用もできない。フィーリングが違う。それは、この社会に育ったから仕方のないこと。そうやって逃げてるのかもしれないけれど。ほら、フィーリングとか。
そう考えると、ある意味で政経の先生は先駆者なのかもしれない。先駆者は非難にさらされるもの、定説だけれども、先生は私の非難にあっているのだから、先生は先駆者の条件を満たしている。先生は先生でそういうスタンスを貫いてほしい。ただ、漢字検定を持ってるものとしては英語検定がどんどん力を増す中で漢字検定が力を失っているのは心苦しい。エゴだね。
耄碌。牡丹と薔薇に今出てきたけど、意味がわからない。やっぱり私は日本語好きを名乗るには修行が足りない。