震災から1年が過ぎた。
あれから、色々なことを考えたけど、
答えは何もでていない。
それどころか風化しつつある被災者の今と原発問題。
そこで、去年の5月に気仙沼に行った時の記事をアップしようと思う。
自分が忘れない為にも。
少し長いので、何回かにわけて公開します。
「気仙沼の世界の果て」 第一部
3月11日。私は、テレビの前で呆然としていた。
画面は、気仙沼を上空から映した漆黒の闇。その中を妖艶にさえ見える無機質な炎が揺れていた。
暗闇の中に見える光景はまさしく地獄だった。
全ての景色が絶望に思えた。世の中があまりに残酷なものだとテレビに向かって罵った。誰に向かって叫んだのだろうか?残念ながら私が振り絞った言葉は、ただの空気の振動で、全く意味を含まないものだった。
私は目以外のもので何も見ようとしなかったし、ただテレビキャスターが壊れたラジオの様に、同じことを喋るループの渦の中で、えぐられそうな何かを守ろうと必死だった。でも、ぽっかりとその何かは、空間をあけたままどこかに消え去ってしまった。
この映像はしばらくの間、頭の中に深くこびりついていた。はらおうとして、どんなにあがいてもとれやしない。
それどころか、その日心の中で起こってしまったものは、私の体を焦がし続けていた。あせりのような感覚が、体を覆っていくのがわかった。
5月25日。私は29回目の誕生日を気仙沼で過ごした。あの日から感じている得体の知れない焦りと虚無感。それを消化するには現地を自分の目で見て、感じて文章にする事で浄化できるのではないかと思ったのだ。そして、もちろん役にたちたいと思っていたので、ボランティアにも参加する予定だった。誕生日に行った理由は特にない。もっと早くに行くつもりだったが、仕事などの関係もあり、ぽっかり空いた予定がその日だけだった。
フリーになったばかりで、貧乏暇なしの私は、少しでも旅賃を減らすためバスで行く事にした。
朝8時、新宿駅発のバスにのり5時間、仙台で他のバスに乗り換える。約7時間の移動で、あの日テレビで見た地獄に到着する。
前日の夜は、歌舞伎町にある漫画喫茶に泊まった。誕生日を漫画喫茶で向かえるのは初めてのことだった。
朝7時に小さなボックスで目をさまし、眠い目をこすりながら歌舞伎町の街を歩いた。酔っぱらった若者やホスト、ホステスがカラスの鳴き声に操られるように歩いている。ネオン街の休息の時間。もう、震災で起こった現実への危機感は消え去ろうとしていた。
新宿駅の西口にむかうとバス乗り場に仙台駅行きのバスがとまっていた。近くのコンビニで、朝昼夜ゴハン用のおにぎりや、ティッシュなどの必需品を買う。現地がどんな場所なのか?どれくらいの復興をしているのか?など情報がなかったから、できるだけ現地でものを買わないようにしようと思っていた。復興の一番の近道は、被災地にお金をおとすこと。そうやって経済の助けになるのが一番だとは聞いていたが、もしまだ物資が不足しているのなら、そんなことをしては復興のさまたげとなってしまう。ボランティアで行ったのに、人に迷惑かけてしまうのは本末転倒である。自分の様になんの特技も無い人間がボランティアをしただけで、本当に役にたてるのかに疑問を持っていた私は、とにかく迷惑だけかけないように心がけていた。
そして、自分が被災地に行ってもいいものなのか?被災者はどう思うのだろう?そんな葛藤が心の中にいつもあった。
その思いは出発直前まであり、なかなか消えなかったがバスに乗ると気持ちを整えることができた。
「迷惑だけはかけないように、とにかく行って現状を見よう。そこから自分のできる事を探そう」
バスは仙台へむけて出発する。埼玉県を通過し、やがて宮城県へとはいっていった。山々を望む国道を走る。遠くに見える山々は新緑の色を呈し、命の循環を保っている。自然が造りだす色たちは不自然な程美しかった。しかし、それさえも不気味な景色に思える。あの日から、自然への憧れは、畏れへと変わっていた。東京に住んでいては見る事の無い、山の色が以前とは違う様に思えるのだ。それがいいことなのか、そうではないのかが私に分からなかった。
仙台に到着した。私は、震災が起こる1ヶ月前にここに取材で訪れたことがある。くしくも、私がフリーになってからの初めての仕事だった。
駅周辺は、その時の印象と何ら変わりはなかったので安心した。そこそこの活気に溢れ、人も集まっていた。ただ、壁面の至る所にはられたポスターは、「がんばろう」という言葉で溢れていた。
ここからバスを乗り換えて2時間。10人程の乗客を乗せたバスが走り出した。途中、窓に頭をもたれかけながら、そとの景色をぼんやりと眺めていると、前回この地を訪れた時にお世話になった人たちの顔や暖かい言葉遣いが頭をよぎりはじめる。みんな無事だろうか?
途中のバス停で、50歳くらいの女性が体操着のような服装の女の子の手をつなぎ乗車してきた。気仙沼に何をしに行くのだろう?よく見ると買い物袋を持っていた。それは、あまりにも日常的な光景だった。
窓から見える景色は、都会から山道へと変わり、いつの間にか港町へと変化して行った。気仙沼へ近づいているはずだが、被害は見当たらない。だんだんと被災地へ向かう緊張感が薄れて行く。もしかしたら、あの日を境にうめつくされた現実は、フィクションだったのかもしれないという淡い期待を抱えながらバスは走り続けた。
やがて、気仙沼の港から近くにある停留所にとまった。海から徒歩20分くらい離れた国道だったが、これといった大きな被害は見られない場所であった。私は小さい頃、瀬戸内海沿いにある港町の近くで育ったが、私の知っている港町と何ら変わりのない、少し寂れていて哀愁の漂う懐かしい空気感だった。
その懐かしさに、とりつかれここで下車することにする。
降りて周囲を見渡しても、どこにも被災した後は見られない。本当にここは気仙沼なのかといぶかしく思ってしまう。
しかし、ひとつだけおかしな点があった。
それは、匂いだった。
私の鼻孔を潮の香りが刺激する。
その匂いは、私の知っているものとは、明らかにちがっていた。海の香りと、腐敗臭や薬品のにおいがないまぜになった、鼻をつんざくような匂い。それが、脳を刺激するたびに、薄れていたあの日テレビ越しに見た光景を思い出していく。この街があの日見た街。そんな思いがだんだんと去来して行く。
偶然にもバス停の前に、予約したホテルが見えた。私は、早々にチェックインを終え、荷物を放り投げ、すぐさま海の方へと向かった。
「海のほうに行っても何にもないよお」
旅館を営むおばあさんが、私が外にでる準備をしていると、話しかけて来た。
その言葉は、この街を見物のように訪れた私の心を見透かしているようだった。
外にでて港へと向かう。するとある地点を境に、変わりなく流れる日常が異質の世界へと変わった。古代日本人は、異世界を作ることによって現実の矛盾を正当化しようとした。その異世界を地獄や神オワス場所と呼び、恐怖や畏れを抱いていたのだ。境界線は、山であったり、海だった。海のむこうには神が住んいて、魚や塩を風とともに運んでくれる。親潮と黒潮が混じり合うことによってできる豊かな漁場は、日本人の命の源で、神が造りだした奇跡のひとつだった。
それは、現代に置いても変わらない。海は、この土地で紡ぎ続ける命の営みを支え続けてきた。ここ気仙沼もそれは同じだっただろう。その街に、神によって新たな境界線が作られていた。その境界線の先には地獄が広がっていた。
被害は想像以上のものだった。
「ここで何が起こったのか?」私はつぶやいた後、呆然と立ち尽くした。
目の前には、がれきの山が広がる。海へと続く静謐な小川からは、家の屋根が荒々しく顔をだし、車は不自然な形で砂山に刺さっている。骨組みだけになってしまった家の中には、がらくたと化してしまった日常が渦を巻いている。道からは、砂煙が舞い、そこから覗ける景色は、この地を更なる澱みにかける。ヘドロの沼に足をとられ、前に進めない場所もあった。
私は言葉を失った。それは、3ヶ月前にテレビの前に座り込んでいた時と同じだった。
ここにあった生き物の日常は、全て飲み込まれていた。がれきの隙間に見える現実から、人々の悲鳴が聞こえてくるようだ。悲劇はまだ荒々しく生きていた。
吐き気を模様してしまう程の凄惨な景色の前に、漂う匂いが恐ろしさを増幅させ続けた。
アスファルトがはげたのか、それとも上から土がつもったのか、砂だらけの2車線ほどの広さを持つ道を、ひとり歩く。両脇にはがれきの山。思い出とアイデンティティが無惨にも転がっている。
ふと、目の前に4駆のパジェロがとまり、中から同年代の青年が降りて来た。
「この街の方ですか?」
「いいえ、違います。東京からきました」
どこに行くのか?と聞かれたので、海にいくと応えると、僕も東京からきたのですが、乗って行きますか? 彼は、フリーのカメラマンだった。仕事の休みをとり、海岸沿いをまわっているのだという。
「この辺は、まだましな方ですね。ひどい所だと、町中にチンピラ風の人がいて、そうとう治安が悪いです。何か盗む物がないか物色しているように見えました」
人の欲望は、こういう時でも広がりつづけるのだろうか?それとも、それこそ人間の真の姿なのだろうか?
震災後、しばらくは被災地のATMから金を、倉庫から灯油を盗まれるという犯罪が多発したという。当時は怒りを覚えたが、この現実を見ると被災地から遠く離れた場所からの来訪者には、彼らをせめることはできなくなった。
「私も、住んでいる地域がこうなってしまったら、何をするかわからないな」
それは生きる為なのか、動物としての本能なのか。
車は港へと向かって行く。そして、近づく程被害は大きくなる。
世界の終焉というものがあれば、きっとこういう状況だろうと思う。そして、戦場というものもこういうものだろう。
ただ、大きな違いは、この光景を見て、怒りも憤りをこれっぽっちも感じないところだろう。自然の脅威の前では、私たちは怒りを覚える事もできない。そして、生まれる、行き場の無い想い。現地の人はどういう思いなのだろうか? 彼らは仲間を失い、家を失い、私たちがテレビで見た世界を生で見続けた。「もしかしたら、怒りを感じられる人的なものが原因の方が、気持ち的に楽なのかもしれない」とふと思う。
同時に、怒りをぶつけるという行為はある種の逃避なのかもしれないとも。
車はがれきの隙間をゆっくりと走り続ける。すると黒こげになってしまった巨大な船が海に浮いているのが見えた。
「海だ」
そこにあったものを無用ながれきニ変えた海は、不自然な程穏やかなだった。
車からおりて、船着き場の先っちょに立つ。生あたたかい潮風にここちよさを感じながら、私は目をとじてみた。
そして、気がつくと無意識のうちに手を合わせて祈り始めた。人は、自分ではどうしようもない思いに追い込まれた時、祈る動物なのかもしれない。最後に残る物、そして本当に寄り添えるものは、想いなのだと思う。例えそれが無力だと分かっていても、一縷の望みをそこに願うのだ。
目を開けて、祈る事をやめた後も
初めて会った2人にかわす言葉はない。
「そろそろ行きましょうか」どちらともなく声をかけた。
いつの間にかあたりは、夜の到来をつげはじめ、藍色の世界へと変わり始めた。がれきの世界は、漆黒の闇の中へ戻ろうとしている。車のライトだけが、孤独に光り続ける。闇がこんなにも恐怖だなんて。体中に悪寒が走って行く。
カメラマンは、ホテルまで送ってくれた。車内は無言だった。
「つきました。何かよくわかんないドライブでしたけど。ありがとうございました」と言って、彼は去って行った。
私は申し訳ない気持ちになった。せっかくのせてくれたのに、ほとんど会話しなかったからだ。しかし、その時の私に会話という選択肢はなかった。世間話の言葉さえ何も思いつかなかった。彼もそれを察知してくれていたのだろう。必要以上の会話を求めてこなかった。
ホテル周辺は、相変わらず平穏な町並みだ。さっき見た光景が嘘みたいだと思う。地獄と人間社会は一本の境界線で切り取られている。その線の意味はあまりにも重いものだった。それを不運の一言で片付けることは私にはできなかった。
葛藤を抱えながら、「これからどうしようか?」と時計を見る。19時をすぎていた。
「そういえばお腹すいたなあ」
こんなときでも腹が減るので困りものだ。
ホテルの近くを歩いていると、運良く営業している居酒屋を見つけた。窓からは光がもれている。今日周辺を歩いた感じででは、この辺りで営業している食事できる場所はないようだった。
ここで食事させてもらおうと思った。
だが扉の前で、躊躇する。よそから来た人間が、気軽に立ち寄っていいものなのかという思いが頭によぎる。あの光景を見た後ということも手伝い、出発前にも感じていたここに来る資格が自分にはあるのか?という思いが強くなる。 しかし、入り口に、「誰でも歓迎!お酒が飲めなくても大丈夫!がんばれ気仙沼!」という手書きの張り紙を見つけ、入る事を決意した、、、(第2部に続く)