いま、フランツシュミットの封印された~をファビオルイージ、ダラス響でYouTubeにきれいに配信されているのを聴きながら、ちょっと中断してこれを書いている。

ようはおわかりだろう。

音楽を聴くということの真の楽しみは、素晴らしい曲に出会うことに他ならないということ。とくに60を超えてまだマーラーの六番だの九番だのになにかしらのドーパミンだの、セロトニンだの、を得ようとしてるのは、これは、


『死ぬまであなたはいったいどれくらい、時間があるのですか?』


という問いかけが必要だ。

死ぬまでたらふくおいしいものを食っていたい、というなら、ここで会話終了。


違うだろ?

と思う。


音楽という奥の細道を訪ねてみないで、死んでいくのか?

と申したい。


もうマーラーの一番、五番、九番とか、

聴くのやめろ、と申告したいのだ。


あなたはいくつですか?

しぬまでいまのレパートリーを、いろんな演奏家で聴かされ続けるのですか?


それは比較的に若いひとなら大目に見れるが、ようはそれクラシックのネタでいいうと、中トロとか、生サーモンとか、ウニイクラとかをたべて喜んでいる、中年万歳人じゃないですか。


どんな人間でも屋台でたこやき食べるのはいい。

あれは風物詩だから。

しかし一生屋台でたこやき食いながら死んでいくならそれはできまい。


そういうことなのだ。

ありきたりの耳障りのよい曲をいかにもクラシックは、よき、でございますなあ、といってるくらいな、高齢者高級レジデンス型介護マンションに暮らしてるようなひとには俺も言うだけ無駄なんでなんにもいわん。


いいたいのは。

ほんとうに、音楽が趣味ならば、音楽の魔力に取り憑かれのたなら、


奥の細道を尋ねろ。


シュミットの七つ~を座右の音楽にするくらい我が友とせよ、ということだ。

いやシュミットでなくてもよい。


日本のライブで取り上げられることの多くない作品が、続けて聴けるよい機会だ。


だからこれを横に追いやるな。

主に据えろ。


またマーラーだのなんだのを聞いて、けっきょく、おいしい料理に食いついて舌鼓打つような、また浅はかな音楽人生に戻るなということだ。


『いったいあなたは死ぬまでにどれだけの音楽的開拓時間が残されているのですか?』


と問う。


むだでばかな、時間が五割はあったのではないか?


そこから少しでも早く脱却しなければ、あなたは、音楽がわからなくなる知的な退廃(認知退行)がいつ起こらないとも限らないのだ。


一日を惰性で生きるのを辞めようよ。