2016年3月12日 大腸カメラ再検査当日

今日は土曜日、普段ならワクワクしながら朝一で海へ行くはずだが、今朝はずっとソワソワしていた。なぜなら、人生はじめての大腸カメラを受けなければいけない日だったから。

いつもなら、多恵子を起こさないように、静かにサーフィン後にかぶるお湯を
ポリタンクに入れる神聖な儀式をしているとこだが、たった一枚の紙切れに
ドキドキしていた。あの健康診断の結果だ。
その結果には、「要精密(※1)精密検査が必要です」と書いてあった。
(※1異常がみられるため医療機関を受診してくださいという意味。)

これが手元に届いた頃からずっと便に血がついていたのは知っている。
ただ、少し不安なことと言えば、その便に血がついている状態が日に日に
酷くなっていたことだった。
「オレの痔かなり酷くなってるな」僕の心配は、まだこの時いぼ痔か切れ痔かで
それ以外何も疑うことはなかった。

とても晴れた日だった。沖縄の3月は海開き。今日海へ行ってたら
最高に気持ち良かっただろう。
波がないであろう日を狙って再検査の予約を数日前に取っていたが
僕の予想は見事に外れていた。
おいおい、波あるじゃん!しかもこんな時に限って良さそうだった。
病院の待合室でSNSを確認していたら
「藤井さん、こちらの部屋で着替えて待っていて下さい」と呼ばれた。

更衣室に置かれてあった検査着は、ちょうどお尻の位置に大きな穴が空いている。
はじめての大腸カメラ検査。
お尻丸出しスタイルに恥ずかしさと戸惑いを感じながら
居心地の悪い検査着に着替えて待っていた。
大腸カメラ・・・お尻串刺しはどんなものか初体験にドキドキしていた。

「藤井さん、どうぞ」いざ、検査台へ。
お尻に塗る潤滑剤は、少しひんやりして気持ちがいい。
お尻に何か入れられる経験と言えば、子供の頃の座薬くらいだ。
僕は苦手だったことを思い出した。

 

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「お尻にカメラ入れていきますよ」
おや、そんな気分悪いもんじゃないぞ。なんて思っていると先生が
「ん、かなり狭くなっているぞ、カメラが太すぎて先に進めないな」
ボクはモニターに映る自分の大腸をはじめてみた。
それはよく健康系のテレビ番組で見るような
いかにもツルッとした腸の中ではなかった。

僕は薬剤師だから医学の範囲である病理学はほとんど学ばないが
モニターに映ったモノが良くないことはすぐ理解できた。
大腸管内部が赤く腫れ炎症していたのだ。
そこにはわずかな隙間しか空いていない。
担当医はモニターを見つめたまま、しばらく黙っていた。

「4/5周炎症しているな、あと一歩で腸閉塞だね」
「お腹痛くなかった?」

そう言われれば、この検査に行く1ヶ月くらい前から
便に血が混じってるいるというレベルではなく、べっとり便に赤黒い
粘った血がついていた。時にはトイレットペーパーに血だけがついていたこともあった。

 

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「カメラを小さなサイズに変えて一応全て見ておきましょうね」
「他には異常なさそうだけど、明日大きな病院で精密検査してくれる」
検査結果を待たなくてもなんとなく分かっていた。

”あの炎症の良し悪しに関わらず、最悪手術だな” 最悪だ!
大きな病院で精密検査が必要?もしかしたら悪いかもしれない・・・
どれくらい悪いんだろう、少し不安になった。

わざわざ、時間まで作っていった再検査。
その日の波は、面ツル胸のファンウェーブ。こんな日に限って!最悪だ。
まだ海へ向かえば間に合う時間だったが、そんな気分ではなかった。
スーパーへ買い物に行くというたえちゃんが待つ駐車場へ向かった。

はじめての大腸カメラはひんやりしていて意外に悪くなかったこと。
大腸カメラの結果、S状結腸の部分に4/5周ほど赤く炎症していたこと。
明日大きな病院で再検査をすること。僕はひとつひとつ順追って説明した。

「もしかしたらオレ、ガンかもしれない」というと、カートを押す手が止まった。
突然の話を理解できず、すぐさま冗談だと思い彼女は爆笑していた。
「ハハハ、また〜そんなはずはないよね〜冗談でしょ!?」

「そんなはずないよね。だってまだ俺たち若いしね」
「大腸の炎症は最悪手術が必要だと思う、明日詳しく調べてくるね」
僕は彼女を安心させようとしていた。
僕自身もガンなわけないじゃん!と思いたかった。
まだこの時、最悪のパターンを考えようとはしなかった。

いつもの日常、スーパーで買い物をする二人。今日は何つくろうか?
二人でキッチンドランカーしながら料理をすることは僕たちの幸せだった。
だけど今日はいつもと少し違う。灰色の気持ちが押し寄せてくる。
当たり前の日常がなくなるのかなと不安にさせ、彼女の胸をジワジワと苦しめた。

まだこの時までは正直、余裕があった。
いや自分に限ってそんなことはない。
まだ30代、33歳になったばかりだった。
これから遊びも仕事も子育ても楽しい未来を想像し
充実した沖縄生活を楽しむ予定だった。

「明日、再検査に行ってくるから午前中の薬局任せたよ、たえちゃん」
僕は午前中、再検査のため赤十字病院の待合室にいた。

2016年3月8日、33歳誕生日の前日
仕事が一段落したボクは、台所に立つたえちゃんと
ビールを片手に将来のビジョンを語り合っていた。

 

「このまま沖縄に永住もいいよね」
「そうね、薬膳カフェ併設の薬局を開局するなんていいじゃない」
「そうだね。沖縄はとても気持ちいい場所だし本格的に考えてみようか」

 

沖縄へ移住して、4年が経とうとしていた。
必要なものは手に入れ、何も不満はなかった。

サーフィンが大好きで沖縄へ移住し、いつも明るく元気いっぱいで
向日葵のような彼女と、とてもやんちゃで大きな
ジャーマンシェパード(名前はアース)と一緒に暮らしていた。

そうそう、アースは沖縄生まれでとても賢いシェパードの雄なんだ。
よくみんなで海に行って遊んだもしていた。泳ぐのも大好きでいいヤツなんだ。

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職場とサーフポイントまでは、信号一つ、車で5分。
陽の長い沖縄の夏は、サーファーにとってこれ以上ない環境だった。
日の出とともに海に入り3時間サーフィンして9時出社。
18時に仕事を終えダッシュでまた海へ、20時頃までサーフィンをしていた。
もちろん、彼女も一緒、サーフィンが大好きだ。
1日5時間サーフィン、仕事をしてるのかサーフィンしてるのか。。。(笑)
お陰さまで、彼女はどんどん上手くなった。

沖縄のローカルサーファーや移住組の兄さんや姉さんにも仲良くしてもらい
’’あ〜このまま沖縄で永住してもいいかな’’、と本気で考えるようになっていた。
アースが大き過ぎて断念したけどマンションを探したりしていた。
少しずつゆっくり僕たち夫婦は、沖縄で人生を築こうとしていた。

夫婦そろって同じ趣味を持ち、仕事も一緒、みんな口揃えてこう言っていた。

「ほんと、夫婦仲いいよね」

その中の良さは、他人から見れば兄妹に間違われるほど。

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当時、ボクは薬剤師の仕事とは別に、広報活動に力を入れていた。
沖縄には薬学部がある大学がないため、薬剤師が慢性的に足りていない。
そこで、沖縄へ就職するを希望する薬剤師や薬学生を対象に
就職活動のサポートや現地で働く薬剤師の生活、沖縄の魅力をを伝える
ワークツーリズムも企画していた。
毎日忙しかったがやりがいがあり、とても充実していた。

 

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薬局の裏にはヤギもいたりしてね。休憩中にエサをやりに行ったりもしていた。

もちろん、仕事が忙しいなどを理由に病院へ行かなかったことが
問題だったと改めてこうして書いている今ではよく分かっている。

だけど当時はこのツアーの仕事が面白くて、犠牲にしていたのかもしれない。
再検査の通知が来てから大腸カメラ検査を受けるまでの半年間
ずっとほったらかしにして、病院は時間が取れる時でもいいやと考えていた。

トイレへいく度、トイレットペーパーに血がついている。
便にも少し血が混じっている。いつになったら痔はよくなるんだろう・・・
少なからずどこか不安はあったのかもしれないが、医療従事者としての変な知識が邪魔をしていた。

便潜血陽性と言っても「どうせ、痔でしょ」というくらいの感覚でしかなかった。

むしろ、安易な方へ考えたかったのかもしれないが、どっちにしても
癌なんて言葉は一切頭の中に出てこなかった。
誰もが、「俺に限って」と思うのは当然だと思う。

大腸カメラをはやく受診しないといけないと、頭では分かったつもりでいた。
だけど、病院へ行くことが正直面倒くさかったんだ。
そして何より、休みの日には朝からサーフィンを優先して遊んでいたかった。

 

よく働き、欲遊ぶ。
よく動き、欲食べる。
これがボクの生き方だった。

 

175cm、体重70kg、30代男性の中では、筋肉質、肥満や病気とは縁遠く
好き嫌いなく何でもよく食べ、よく飲み、よく遊んでいた。
ストレスもなければ、自由気ままにやっていた。
だからボクは自分のことを健康だとばかり思っていた。
毎日海に入ってるから日焼けが酷かったくらいかな(笑)

でも、ボクの体の中でこの時、癌がどんどん大きくなっていたんだ。
そんなこと考えると今こうして書いている今でもゾッとする。

病室のベットで考えていた。

「生きるために働く」なんて大げさだけど
「いったい何のために働いているんだろう・・・」

自分の人生を歩んでいないような気がして怖くなった。
このままでは年を追うごとに、心の穴が大きくなってしまうかもしれない。

「夢や目標のない、自分の薬剤師人生は、このままでいいのか」

何も変化のない毎日に安定を求めては、どこか物足りなさを感じる。
思い描いていた薬剤師人生、何かが違う。

悶々とした薬剤師人生を歩む中、首を骨折する大きな事故。
これからどのように生きていくか「生き方」を考えるなかで
入院3ヶ月はあっという間の時間だった。

人生80年時代を迎える今、その人生もただ長いだけでなく
人生に対する価値観や生き方の価値をどこに置き
仕事もプライベートも充実している豊かな人生であることが大切だと考えた。

じゃ、豊かな人生って一体なんだろう?
人それぞれ価値観は違う。だけど僕たち夫婦は一緒だった。
これまで、学生時代から何をするにも一緒だった。
仕事も一緒となれば、向かうところ敵なし、無敵だった。
これからの人生を話し合い、生き方について話し合った。
そして、僕たちは結婚した。

僕たちは、ワークライフバランスを上手くとりながら
心豊かに「クオリティー・オブ・ライフ(QOL)」を心がけたいと考え
その第一歩として、住みたい場所に移住することにした。

移住する候補は、種子島や奄美大島、沖縄
当時世界遺産になったばかりの小笠原諸島。
サーフィンをライフワークの一部にしたいから離島ばかり。

中でも「長寿の島」として有名な沖縄は、長寿地域の指標である
人口10万人当たりに占める百歳以上長寿者の割合が日本国内でも上位。
その長寿を支える地域医療、在宅医療に興味があった。

東南アジア文化、アメリカ文化、琉球文化が
上手くチャンプルー(混ざった)された沖縄は本土と違い、刺激的。
自然豊かな環境は、子育てに最適だと思った。
どれをとっても沖縄は魅力的だった。
透き通る青い海と年中温かい気候、サーフィンする環境もバッチリだ。
僕たちは思い切って沖縄へ移住を決めた。
 

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たくさんの友人、兄さんや姉さんに出会い沖縄の生活はホントに楽しかった。
思いっきりサーフィンをして、思いっきり仕事をする。
シンプルなライフスタイルが、僕たちに丁度よくとても心地よかった。

まだ暗いうちに起床し、身支度を整え、太陽が昇り始める中
サーフィンを楽しみ、まだ髪も乾かぬうちに薬局へ出勤。

朝、サーフィンをして仕事をすると、「疲れませんか?」と
よく聞かれるけど、疲れる以上に楽しく、むしろ逆に調子がとても良い。
体調が良いので、投薬は元気良く、清々しくらい。

サーフィンは、精神的健康が得られる数少ないスポーツの一つだと思う。
自然の中で行うスポーツは、セロトニンという幸せホルモンが脳から分泌される。

セロトニンは、ストレスに強く、心のバランスを取りストレスによる
緊張状態を落ち着かせる。またメラトニンの量も増え、夜もグッスリ
眠ることができる。

毎日、規則正しい生活を送り、セロトニンが爆発している
僕たち夫婦は、患者からよくこう言われていた。

「あなた、元気ね!」
「声が明るくていいわ」
「たまにあなたの顔見にきてるの」

医療従事者の基本である“知識”はもちろんのこと
もっと人として大切な“元気”という薬を調剤しているようで誇らしかった。
これが僕たちが移住して見つけた、生きがいでもあり、働きがいだった。

雄のジャーマンシェパードのアースを飼いはじめますます生活は楽しくなった。
たえちゃんは、大の犬好きで大型犬を家の中で飼い
毎日一緒に寝ることが夢だった。
 

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アースにスケボーを引っ張っってもらったりして。
僕たちが思い描いていたライフワークバランスだった。

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こうして約4年間少しずつ積み上げてきた生活は、突然のガン宣告によって
ガラガラともろくも崩れ去ってしまった。
当然、離れたくないと思ったけど、若い夫婦に残る選択はなかった。

福岡に帰ってから、しばらく経って沖縄へ遊びに行く機会があった。
僕たちを待っていたのは、

「おかえり〜」
「心配したやっさー」
「よく頑張ってるね」

と優しく抱きしめてくれる友人たちだった。

帰る場所のある幸せは、僕たちにとっての大切な宝物。
沖縄で過ごした時間はかけがえのない宝物。
僕たち夫婦にとって生きる勇気を与えてくれる。

沖縄を離れてもうすぐ4年。
沖縄に住んでいた時間より長くなった。
今は、宮崎に住んでいるけど、沖縄の友人が遊びに訪ねてくる。
いつか笑顔で、「よくなったよ」と報告しに帰りたい。
沖縄は、僕たち夫婦の人生の旅がはじまった場所だから。