終戦記念日 戦争
お久しぶりっこ!!こんにちは♡暑さ、落ち着きました?忙しくて、携帯を触るのもすこし。ブログを書く暇が、、見つかりませんでした。透析は、だるさで眠っていました。起きていても、背中や首が痛くて、携帯持てない。電波がまず飛ばなくて、、飛ぶ日もある。だから、夜中は何回も起きたり寝不足で、家事は寝る前に、、体を振り絞って。終戦記念日は、昨日。。祖父を想う日です。きっと、おじいちゃんが生きていたら、、一緒に暮らして、、わたしは、いっぱいいっぱい、、可愛がられたんじゃないかなあ。一〇さん。農家をしながら、デパート。おそらく、そごうらしい。高島屋ではありませんでした、すみません。外商にお勤めで、、いろんな事を、教えてもらえたかな。一応、11人兄弟の長男でした。祖父は、近衛兵として、、本来、戦争へは行かずに天皇様に仕える予定でした。ですが、痔の検査にひっかかり、、太平洋戦争、ガダルカナル島へ行きました。生きていたら、、どんな風に、私と時間をつくってくださったでしょう。祖母は、大切にできなかったわたしだから、最期まで共にそばにいて、病床もいつも過ごして、小さい時から、お祖母ちゃんのそばにいたけど。。お手伝いもして、、いつも、お祖母ちゃんといたけど。足りてない。全然、足りてないから。体を酷使とも思わず、お布団カバー縫ってくれて、7段雛を母方の祖父は買ってくれて、、お祖母ちゃんが組み立てして、1人で片付けて、、お雛様ケーキ3つも用意してくれて、ひなあられと、、何もかも、1人で祝ってくれた。母が勤めていたから。お祖母ちゃんに、お返しは足りていない。おじいちゃんに、お祖母ちゃんに、、わたしは心配をたくさんかけて、、怒られても仕方がないよ。そんな、おじいちゃん。お墓に骨はありません。お祖母ちゃんは、それがさみしいと申していました。本当のお墓は、大きな公園にあります。 そちらにも、骨はありません。ここは、出戻りお祖母ちゃんの1人で創ったお墓です。あるのは、この内閣さんから戴いた額だけです。これが、祖父のおじいちゃんの、、日本に帰ってきた姿でした。お祖母ちゃんは、おじいちゃんが生きていたら、、出戻りしなくて、、一緒に、公園のおっきなポーチのあるお墓に入り、、、骨も重ねられたんです。父が17歳の時に、、父の友達お祖母ちゃんの親戚の方に連れられて、父はお祖母ちゃんの家に帰ってきました。自分の実家横の、、お祖母ちゃんは、貧乏が口癖だったけど、、竹のあのカタンとかゆう、鹿威しはあるし、、庭は広いし、、すごいおっきい家ですよ。隣。一時は、地元わたしの小学校あたりまであったとゆう、、その横で、、一人暮らしの猫ちゃんと住んでいた家です。そこから、改名をしました。父は、今〇〇ですが、その日まで、〇〇でした。戦争で、父親がいなくて、引き取られていた本家は、エリアでは、大地主百姓でしたが、給食も与えられず、1人帰宅していたことを、酔うと泣いて話をしていました。わたしたちに。。祖母お祖母ちゃんがなくなる最期だけ、、父は、お母ちゃんといいました。初めて、言ったのが最期でした。これが、私の見た戦争の親子です。あなたに、語れる戦争はありますか?お祖母ちゃんがいたから、わたしがいます。お祖母ちゃんがまだ!父を連れて行かれる前に、父を抱いて、橋の下に隠れてくれたから、父が助かりました。お祖母ちゃんが、一生懸命、父を、引き取りにいこうとして返されたから、父は、お祖母ちゃんを恨みながら、、帰ってきました。それを遺します。