漫画作品は、連載雑誌にしろコミックスにしろ、とにかく「購入しない」ということを旨としているワタクシ。
立ち読みしている作品をもしも全部購入......なんてことになったら、倉庫がいくつあっても足りませんから(汗)。

さて。

そんなふうにコンビニで立ち読みしていることが比較的多い(←コンビニ店員さんごめんなさい)ワタクシ、この日も「立ち読み対象?作品」である山下和美女史の『不思議な少年』を某羅森(ローソン)にて拝読。

不思議な少年(1) (モーニング KC)
山下 和美
講談社
おすすめ度の平均: 4.0
5 構図の巧さ
5 メッセージ色の強い漫画
5 不思議な少年
4 闇を見る
5 少年は何を思う


山下女史といえば、『天才 柳沢教授の生活』でおなじみの方も多いかと思います。
もちろん(?)柳沢教授も立ち読み拝読対象となっておりまする。

天才 柳沢教授の生活(28) (モーニング KC)
山下 和美
講談社
おすすめ度の平均: 5.0
5 面白いです
5 じわじわ染み込む柳沢イズム
5 教授の帰還。
5 天才と不思議


『天才 柳沢教授の生活』が女性誌連載なのに対し、『不思議な少年』は男性誌連載です。
私は年齢性別を問わず自分自身のアンテナが反応したものは節操なく情報を取り入れようとする性質ですが、それがゆえにたとえばコミック雑誌を男女両方読んでいると「女性作家が男性誌で執筆するからこそ生まれる面白さ」というものに遭遇することがあります。
(それを特に顕著に感じたうちのひとつが『生徒諸君!』でおなじみの庄司陽子女史がIS(インターセクシャル)をテーマに取り上げて男性誌で描いた作品ですが、ここでは割愛します。)

山下女史の『不思議な少年』はそのタイトル通り、不思議な少年がいろいろな人間の前に現れる一話完結型の作品です。
男性作家が一概に深くないとは申しませんが、私の敬愛する脚本家・小林靖子女史同様に「女性ならではの視点の骨太さ、深さ、真実を見つめ容赦なくえぐり出す残酷さ」が、この『不思議な少年』にも表れているように感じます。
この日に拝読したエピソードもそれらが感じられるお話で、話の結末で胸がしめつけられる思いになりました。
コンビニ店頭で号泣などしてしまうと周囲のかたがたに迷惑になるのでこらえましたが、胸を打たれ涙がこみあげてくる私の心に突き上げてきた思いは、

「こんなふうに、たくさんの人に一度に広くアプローチできること。たくさんの人にメッセージを一度に送れることにかかわるべきなのではないだろうか」

というものでした。

もちろんそういう風には割と人生全体を通して思ってはいるのですが、ここ数年は武術を通して「対面する一人一人に直接働きかける」スタイルが中心になっていたような気がします。

人間というものは、自分自身がやっていないこと、自分自身が現状でできていないことを他の第三者がこなしているのを見ると、どうしてもついつい「あの人は環境や才能に恵まれているから」と誤解しがち。実は決してそうではない人も多く存在しているのに、です。

かくいう私自身も、「子供の頃から武術を学んでいて、フォロー環境に恵まれていた」と誤解されたことが何度もあります。
実際の私は、中学までは虚弱体質気味で体育は万年「あひるの行列」、いまだにスポーツよりもインドア作業が好きな、数年前の健康診断結果でも「若干貧血気味では?」なんてことが書かれた、「もともとの身体的素質にはぜんぜん恵まれていない」へなちょこさん。
武術を始めたのも、とても「子供」とはいえない年齢から。

おまけに、家族親族共に「全日本大会だかなんだか知らないけど、筋肉痛になったりどっか痛めたり、無駄な運動してバカじゃない?」という反応。
筋肉痛でイタイイタイ言う私に、(当時まだ家族関係が継続していたころ)上の弟には
「無駄な運動してるからだよ。(バーカ)」
と面と向かってはっきり言われたくらい。

弟妹の新しい制服などでどうしてもまとまったお金が要るからと母親に懇願され、北京への短期留学用に貯めていたお金を貸したら、その返済が留学時期までに間に合わず(というかのらりくらりとかわされ)、間に合わないとわかったとたんに返済ナシにされたり...という一件や、私にとっては「武術と切り離されたら生きていけないくらい」の精神状態なのに母親に「武術なんてキライだから(私の目の前で)話しないで!」と怒鳴られたことすらあります。

そんなことだから当然フォローなどあるはずもありません。
家族親族のフォローどころか、基本的には何もかも泣きながら一人でやってこざるを得ませんでした。

世間が言うような(実は根拠に乏しい)才能だの素質だのもなく、バックアップなど何もなく、長いものに巻かれることができないがためにどうしても損をしてひどい目に遭ってしまいがち。
(注:だから○○が悪い、とか○○がかわいそう、とかいう話では決してありません。ここでは○○が良い悪い・かわいそうというのは私が言いたいこととは何の関連性もないので完全に除外のほどお願い申し上げます)

でも、それでも完全に武術をやめたわけではありません。
細くズルズル.....ですがしがみついています。
自分自身がこんなだから、世間が代名詞のように使う「才能」という言葉が、一般人が趣味の範囲で何かに取り組む上においてはまったくと言っていいほど意味をなさないことを、心身と経験を以ってとことん思い知っています。

何よりも必要なのは「それをやりたい、あきらめたくない」という思いがどれだけ強いか。
すべてを切り開くのは、それだけではないのか。
古今東西の歴史を紐解いても、歴史を切り開いてきたのは先人たちのそのような「思い」のみ。

だから、少なくとも私の中では「才能」「素質」なんてどうでもよく、とにかく「武術を本当に好きになって、地道に根気よく続けて」欲しかったのです。

「アジア大会で金メダルを獲りたいとかそういう目標じゃなくて、今の自分より一歩でも二歩でも進歩できればいいんだよね? だったら、五体満足でありさえすればあとは継続して練習するだけだよ」

このフレーズを、この数年でいったい何度繰り返したのか、あまりにも多すぎて思い出せないくらい繰り返し続けました。
自分も実際に動いて、「虚弱体質でも、体育がダメでも、スポーツが面倒くさくても、続ければこうやって何かしらできるようになるんだよ」と示していたつもりでした。

それなのに、返ってくるのは「才能」「素質」「年齢」「私には無理です」の嵐。
才能も素質もなく、年齢も若くなく、自分に自信もない私がやって見せても、です。
老若男女問わず募集をしていても来るのは大人ばかりで、大人は「若くないから無理」、たまに子供が来ても「大人じゃないから、子供だから無理」とひたすら口にするばかり。

それでもあきらめて欲しくなくて、言い続けやり続けていましたが、無駄でした。
日本の世間が植えつける、根拠のない「無理無理」教にみんな洗脳されてしまっていて、歴史を切り開いたり何かを成し遂げた先人たちが身をもって証明した「自分の限界を決めるのは自分だけ」という真実が見えない聞こえない理解できない状態になっているのです。

そんなふうに自分自身が飢え死にする寸前まで心身をすり減らしてやってきた結果が、前出の

「こんなふうに、たくさんの人に一度に広くアプローチできること。たくさんの人にメッセージを一度に送れることにかかわるべきなのではないだろうか」

という思いになおさら強くつながったのかもしれません。

一人一人に面と向かって本気で何年もエネルギーを注ぎ続けて、それがまったくの徒労に終わるよりも、広範囲にメッセージを届けることをダメ元で続けるほうが、私自信の精神衛生上も「病んでしまう度」が多少は低くなるかなぁ.......と思ってしまうので。



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