お人好しと言われるかもしれないが、自分には嫌いな人がいない。




好き 嫌い


それらは比較から生じる感情だ。
それらが比較から生じる感情であるということは、比較がなくなったときそれら二つの感情も同時になくなっていくのだろうか?
嫌いという感情がなくなると好きという感情もなくなり、嫌いという感情が弱まると好きという感情も弱まるのだろうか?




はっきりしているのは比較評価を行うのをやめると、思考が漠然としリラックスするということだ。
価値判断の休憩とでも言おうか。

その状態は、なんとも言えない心地よさを与えてくれる。




比較評価をやめると、嫌いという感情は明らかに消えていく。
しかし好きという感情だけうっすらと残るようにも感じられる。


でもそれはけして熱狂的な"好き"ではない。
いわゆる比較から生じる好きに比べると、対比効果が働かない分やわらかくおとなしい印象を与える。
輪郭が曖昧なその想いは漠然とした広がりを持ち、熱さや冷たさといった温度感覚の希薄なエネルギーだ。

(曖昧なエネルギーが比較評価により分離することにより、好きと嫌いの輪郭が生じる。また、好き嫌いの判断基準がはっきりすればするほどそれらの輪郭もはっきりしていく。)


またそれは、あたたかくも冷たくも、丸にも四角にもなり得る可能性を持つ、エネルギーの大元の様な状態だ。

好きとは常に嫌いと対比されるものであり、それらは切り離すことが出来ない。




それらがなくなり漠然とした状態、つまり全てが"ふつう"にカテゴライズされる状態を何と言ったらいいのだろう?


比較を基盤にしていないこの感覚を、愛と表現することも出来るのかもしれない。




魂からの感謝を。

人は結論、結論と言って、その都度そこにある状態を評価し、悪い結果と判断すると何かを責める。
つまり、人は無限の連続性の中で変容し続ける物理的現象をある瞬間で分断し、そこをある一つのスパンの終わりと仮定しているわけだが、本来この宇宙にはスパンなどないし、もちろんその終わりも存在しない。
それらは人の観念が創り出したものだ。

今良いと感じても今後どう事が転じるかわからない。
今悪いと感じても今後どう事が転じるかわからない。
そしてそもそも出来事に良いも悪いもない。

ただ必要なことが起こるだけだ。



しかしだからと言って、"体験している出来事を評価するな"とは言わない。
それはあなたの自我が過去に学んだ基準に基き、半ば反射的に生じるものだから。
そしてその基準は、人や社会が抱える固定観念をそのまま請け負ったものだ。

実はあなたがたは、その基準が曖昧なものである事を知っている。
にも関わらず、あなたがたはその基準に従い続けてきた。

自我と共にある以上、評価を消し去ることは出来ないが、必要以上それに翻弄されない在り方を獲得することは可能だ。



過去にあなたは、こういうことは良いことで、こういうことは悪いことだという、出来事を評価する基準を学んできた。
そして沢山の基準が今あなたがたの中にある。

例えば、

得るのは良いこと。
失うのは悪いこと。

これは代表的な固定観念だ。

多くの場合この観念は、あなたがたに苦しみを与えている。
まずそれを自覚することからはじめるといい。



お金を例に書くと…

もし仕事が上手くいってお金が入ったなら、あなたは喜ぶだろう。
しかし次の瞬間、あなたはすぐそれを失うことを心配しはじめ、実際お金が失われると落胆する。
また、
今後お金が入ることがあるのだろうか?と未来をイメージし心配する。

人は不安になると様々なことをコントロールしようとする。
しかしあなたがコントロールしようとする人の行為や出来事などは、あなたのコントロール外にあることだ。
コントロール出来ないことをどうにかしようとする行為は、当然のこととして困難な状況を生み、あなたは疲弊する。
競争相手を妨げることも、あなたがたが行ってきたコントロールの方法の一つだ。

その後運よくお金が得られると、あなたはほっとっする。
しかしまた次の瞬間にはそれを失うことを心配する…

日々の生活を送る中で、あなたがたがいかに多くの時間を心配に囚われ過しているかが良くわかるだろう。



あなたがたは小刻みに良し悪しを判断し一喜一憂しているが、もしそれに疲れたなら、切り取るスパンの範囲を少し広げてみることをお勧めする。

ある瞬間悪いと感じたことが、時間の経過の中で何か良いと感じることをもたらしてくれた経験が誰しもあるのではないだろうか?
良し悪しの判断とは、その瞬間だけに焦点をあてているから生じ得る判断なのだ。
もしあなたが今いる一点を遠くから離れて見たなら、時間軸から離れ物事の成り行きを眺めたなら、今の状態が悪く見えても、さほど気にならなくなるだろう。
その評価が、長い連続性のある部分を切り取った一瞬についての判断であり、またそれが時の流れと共にどう転じていくのかわからないことが認識出来るからだ。

つまり長い目で見た時、良し悪しの判断が曖昧になって来るのだ。



全ての出来事は、あなたがたの意識に変化をもらたらすために存在する。
良いと感じる出来事も悪いと感じる出来事も。
あなたから何かを奪うために存在するものはない。

物理的な事柄に焦点をあてた場合、奪われたと感じることがあるのはわかる。
自我とは物理次元に焦点をあてた意識だ。
だから自我は何かを得たと感じたとき喜び、失ったと感じるとがっかりする。

そして自我に焦点をあて一喜一憂し続けることは、あなたがたにとってとても大変なことなのだ。(もちろんその落差を楽しむことも出来る。)



でも、あなたの本質である魂、本当のあなたは何も失うことはない。
そして何も得ることはない。

魂の視点から見たとき、あなたは得ることも失うこともない存在であり、常に完璧な状態"光"としてある。それがあなたがたの本質だ。
そして魂に焦点をあてることは救いにつながる。

あなたがたの中には常にその両方の在り方が存在していて、そのバランスによって、苦しみが多い人、苦しみが少ない人という差異が生じる。



あなたがたの多くは、最近自我という乗り物をのりこなすために教習所に通いだした初心者だ。
そして、自我の運転者としてはビギナーであるあなたがたにまず与えられる教習が、切り取るスパンを少し広げてみる試みだ。
それは時間軸の一点に埋もれている状態から脱し、時間軸から少し離れて時間軸を見渡す練習だ。
(あなたは、そんなこと知っていると言うかもしれない。でも苦しみの中にいるとき、大体の場合あなたがたはそれを完全に忘れいている。)

それを練習すると次第に、細かいスパンに分断されていた各々の境界線があいまいになり、分断されていた出来事がつながり、さらには全ての出来事に連続性が感じられるようになってくる。
同時に、沢山の結果が消え去り、その時々に下した沢山の結論(良し悪しの判断)も同時に無意味なものとなる。

また大きな連続性が見えてくると、あなたが歩んできた道、これから歩んでいく道が、あなたの魂の望みに従ったものであることがはっきりと認識出来るようになる。
そこに至った時、その道はとても安心感に満ちたものに感じられるようになるだろう。



何も心配はいらない。
あなたがたはいついかなるときも光へ向かう道を歩んでいる。
それ以外はあり得ない。

ある地点から見た時、闇へ向かっていると感じられても、さらに離れた地点から見た時、実はそれも光へ導くための途中経過に過ぎないことがわかるだろう。
(だから闇を恐れる必要は一切ない。それどころか闇もあなたがたの意識に変化を生み出すために必要な要素でありサポートなのだ。)

起こることや今の自分の在り方を信頼し今という瞬間を歩むためには、また評価に一喜一憂し疲れ果てることがないようにするためには、時々時間軸から離れ出来事につながり(連続性)を見出すことが役に立つ。



自我がささやく評価の基準に翻弄されているとき、あなたがたは苦しみの中にある。
そのときあなたは固定観念の海におぼれ、時間軸の一点に埋没し大きな流れを見失っている状態にある。

そんなときは、瞑想をするなどしてリラックスした状態を獲得するよう心掛けるといい。
瞑想は思考、固定観念、判断・評価のない世界にあなたを連れ出してくれる。
それは自分を思考の海から救い出すことを意味する。



宇宙には無駄なことが一つもない。
全ての出来事が、あなたがたのリクエストに準じている。
寸分のずれもなく。

そして宇宙に結論などない。
無限の連続性が存在するだけだ。
(もちろんそれは時間軸があると捉えた場合の話だが。)



あなたがたは今、自分自身で生み出した結論という瓦礫の荒野を歩んでいる。
それはあなたがたにとってとても困難な道であるように感じられるだろう。

しかし、結論に囚われなければあなたの振動数が上がり、瓦礫をすり抜けることが可能になるだろう。
さらにあなたさえその気になれば結論を生み出さないことも可能だ。
結論を生み出さなければ、当然の事として道はとても歩みやすい快適なものとなる。

そう、あなたがたの歩む道を困難にしているもの、それがあなたがた自身が事あるごとに下している評価であり、判断であり、結論なのだ。



もしあなたが疲れているなら、答えを急がず長いスパンで事を捉えてみるといい。
そのスパンが長くなれば長くなるほど安定感も増していくだろう。
つまり日々の生活の中何が起ころうとも、あなたはそれに心を左右されなくなる。

そして次第に、あなたの本当の望み、魂の望みがその輪郭を露にしいくとこだろう。



魂からの感謝を。

人は長い間、幸せになるためには、人から愛される必要があると思い込んでいた。

ただ愛せば幸せになれるのに。



他者から愛されないと幸せを感じることが出来ない人は、愛されることを必要とする。

そして愛されることを必要とするには、自分に愛が不足していると思いこませる必要がある。

つまり自分を愛ではない状態に変えなくてはならない。

そういう人の心は他者の言葉や行為、状態により影響を受け、幸せになったり、不幸せになったり、大きく左右される。



自分が愛であることを感じている人は、他者からの愛を求める必要がない。
そういう人の心は関わる相手のタイプや状態に全く左右されない。
相手がどうあろうと、その人を愛し続けるので常に幸せであることができる。



そう、愛せばあなたは愛となり、幸せを感じる。

他者を評価することなく愛せば、あなたは誰といても常に幸せを感じるだろう。

境遇や出来事を評価することなく愛せば、どんな状況にあろうとも常に幸せを感じるだろう。



実は、他者のあり方も、出来事も境遇も、全てはあなたが愛であることを実感するために用意されたきっかけに過ぎない。
あなたがたはどんな状況の中でも、愛を選ぶことが出来る。
そういう存在なのだ。



あなたがたは、愛されているとか、愛されていないとか感じながら日々の生活を送っている。そしてそれらの判断は固定観念から生じている。

でも実は、愛されていると感じる出来事も、愛されていないと感じる出来事も、良いと感じる出来事も、悪いと感じる出来事も、幸運と感じる出来事も、不運と感じる出来事も、元を正せば全て愛のエネルギーから生じている。

だから、安心してあなたの人生に起こることを受け入れればいい。

起こることを観念で捉えず、ただその中に身をおけばいい。

起こることに身を任せ、成り行きを静かな心で観ていたなら、いつか全ての事が愛であったことに気付くだろう。

だから結論を急がないことだ。



もちろん、あなたが自分自身を愛ではないと感じるときがあるのを知っている。
でも、本当はあなたが愛ではないときはない。

あなたは愛以外のものに成り得ない。

あなたはいついかなる時も愛であり、そうではない時は一瞬たりともない。



もちろん、あなたが愛されていないと感じるときがあるのを知っている。

でも、本当はあなたが愛されていないときはない。

あなたが愛されないことなどあり得ない。
あなたはいついかなる時も愛されていて、そうではない時は一瞬たりともない。



境遇や出来事や他者を評価することなく愛せば、あなたは苦しみから開放される。

愛されることを期待して相手に何かを求めたり、裏切られたと感じがっかりしたり、相手に怒りを感じたり、恨んだり憎んだりする必要もなくなる。

そう、相手がどうあろうと、ただ愛せばいい。
境遇がどうあろうと、どんな出来事が起きようとも、信頼と共にそれを受け入れればいい。
それだけであなたは常に愛と共に在り、幸せを感じることが出来る。



このメッセージを生きたとき、あなたは実感するだろう。

「人から愛されることを求める必要なんてなかったんだ。」



人の行為や出来事・境遇は、あなたの幸せと全く関わりがない。

つまり、どんな状況の中にいようともあなたは幸せであることが出来るのだ。



もしこのメッセージが気になった人がいたなら、一度試してみるといい。

目をつむって、気になる人を愛の光で包むイメージをしてみることを。

対象は誰でも構わない。好きな人でも嫌いな人でもいい。(ポジティヴな感情にしろネガティヴな感情にしろ、強い想いを抱いている相手のほうが、その効果がわかり易いかもしれない。)

そして誰かを愛の光で包んだとき、同時にあなたの心があたたかくなるのがわかるはずだ。

そのあたたかさこそが、あなたが愛であることを選択した証であり、愛と共に在るときに感じる感覚だ。



難しく考えることはない。

愛することとは行為でもなく言葉でもなく、ただあなたがたのイメージ、つまり意識の周波数のことなのだ。

だからもう愛するための理由をさがすのはやめるといい。



幸せとは心があたたかくなること、つまりあなたが愛であることを選択したときに感じる感情なのだ。
ただ誰かを愛し、何かを愛し、心の温度がふっと上昇する感覚を感じればいい。


相手に何かを求める必要はない。
愛されないと幸せになれないという幻想を捨て、ただ愛しなさい。
そうすれば、心の中に充満していた冷たく重く息苦しいエネルギーが瞬く間に昇華され、心は軽やかになり、あなたは苦しみから解放されるだろう。



それこそが長い間あなたがさがし求めていた状態なのだ。
そして、これこそが持続的な幸せに至るためのシンプルな道であり真実の道なのだ。



そう。

ただ愛せば幸せになる。