サンタ・マリア・ノヴェッラ教会は9世紀ごろ、この地にあったサンタ・マリア・ヴィーニェ礼拝堂が起源とされている。1211年にドミニコ会の修道士がこの地に新たな教会を建てることとしたのが、現在の教会である。その当時、修道僧たちが薬草を栽培して薬剤を調合していたのが、世界最古の薬局といわれるサンタ・マリア・ノヴェッラであり、800年以上経た今でも続いている。
黒と白の大理石をはめ込んだファサードの上部は、レオン・バッティスタ・アルベルティによるデザインである。アルベルティの著した「建築論」はレオナルドも所有していた。

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共和国政府の目的は、ヴェッキオ宮殿の2階にある500人広間の壁にフレスコ画を描いてもらうことであり、前渡金35フィオリーノで制作期間中は月額15フィオリーノを支給する契約が結ばれた。
こうしてサンタ・マリア・ノヴェッラ教会に移り住んだレオナルドは、糊付けして原寸大下絵にするための紙500枚、窓を覆うための紙、蝋、テレピン油、鉛白などを購入している。
この巨大な壁画のテーマは、1440年に傭兵隊長ニッコロ・ピッチーニ率いるミラノ軍の攻撃をフィレンツェ軍が返り討ちにしたという戦闘で、トスカーナの丘陵地帯にあるアンギアーリ村が舞台となっている。
数年前にチェーザレ・ボルジアの顧問技師を務めていたレオナルドはこの下絵を描く際、いかに戦闘を表現するかを思案したに違いない。
「最初に君は大砲が発する煙を描かねばならない。その煙は、馬や兵士達の動きによって舞い上がった砂埃と空中で混ざり合うようにする。空中はあらゆる方向に飛び交う矢で満たさなければならず、飛んで行く砲弾には煙が尾を引く様子を描かなければならない。倒れたものを描こうとするならば、その者が血に染まった塵と泥土のなかに滑り落ちたところを描かなければならない。他の者たちは、死の苦悶の表情を浮かべ、歯軋りをし、眼を剥き、握り締めた拳を自らの体に押し当て、脚を捻った姿で表すがよい。死んだ馬の上に折り重なるように倒れ伏した多くの男達を描くのもいいだろう。」