マドリッド手稿Ⅱ.112r_聖アンドレアの夜 | レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

レオナルド・ダ・ヴィンチのノート

万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの活躍を紹介していきます。

レオナルド・ダ・ヴィンチの形容詞として良く使われる言葉が「万能の天才」だ。レオナルドは最後の晩餐やモナ・リザを生んだ天才画家としてだけでなく、その膨大な手書きノート=手稿に書かれた機械工学や建築、科学研究、人体解剖、数々の発明を成し遂げた人物としてのトータル・イメージが、そのような形容を作り出してきた。しかし、レオナルドの手稿を読み解いていくと、そこには地道な作業によって数々の失敗を乗り越えてきた「努力の人」としての姿が浮かんでくるのである。

1481年までのフィレンツェヴェロッキオ工房で過ごした徒弟時代、ボッティチェリ等の先輩画家の活躍に比べればこれといった功績は残していない。30歳の時にミラノに移り住んでから徐々に「岩窟の聖母:1483年頃」「白纏を抱く婦人:1485年頃」「最後の晩餐:1495年頃」とその頭角をあらわして来る。しかし、最後の晩餐はその先端的な画法が裏目に出てしまい完成直後から損傷が始まり、レオナルドを多いに落胆させている。ミケランジェロとの競作として1504年から描き始めたアンギアーリの戦いも失敗に終わっている。レオナルドが最も力を注いでいた飛行機械の実験も失敗し、スフォルツァ騎馬像も戦争によって破壊されてしまっている。

最も成功した作品であるモナ・リザを描いたのは、アンギアーリの戦いと同年代の1504年からである。レオナルドは既に52歳になっており、再びフィレンツェに戻っていた。これが後に万能の天才と呼ばれる人物の姿であるが、数々の失敗にもめげずに前進し続けた結果実を結んだ素晴らしい果実がこの傑作なのである。

レオナルドは絵画論第2書の中で、画家を目指す学生に向けて「画家を志す者はまず勤勉でなければならない。」と書いている。そして「画学生はすべからく孤独に耐えて精進しなければならない。」と説く。談笑しながら作品を制作出来るはずも無く、夜半も孤独な空間の中で試行錯誤を繰り返さなければならない。50歳を越えてユークリッド幾何学を独習していたレオナルドは、マドリッド手稿Ⅱの片隅にこう書き残している。「聖アンドレの夜(1504年11月30日)、灯火も、夜も、また書いてきた紙も尽きるころ、ついに円の求積法を発見した。時間の最後に、結論を得た。」
こういった日々の努力の積み重ねが、レオナルドを天才にしたのではないだろうか?
猛暑に負けずに、少しは私も見習わなければと思う(汗)。


$レオナルド・ダ・ヴィンチのノート-マドリッド手稿Ⅱ.112r_聖アンドレアの夜
マドリッド手稿Ⅱ.112r

比較の知識。
六角形から除き得る最大の円を除き、その残りを求積したい。後にこれを、小さいほうの面積を大きい方の上に重ねることにより、六角形全体の面積と比較してみよう。その結果、このように結論づけよう。求積された大きい方の残りは、その六角形に正確に内接する最大の円と等しい。

等しい2円を描き、その各円周を等分する。しかる後、両方から円の六等分に関係のある等しい部分を一つ除き、2円をaとbとしよう。それから、dcに示されている方法で互いに重ね合わせ、初めに円cから部分nを除く。同じように円dからもその部分nを除くと、残りcdもまた、図形nmに示されているような形の等しい図形になる。このほか、円nmからそれら部分の全部を除く。つまり、mからは、[全部で]6つ作図したうちの2つはすでに欠いているので4を除く。また円nからは、六角形の内側の一つだけを欠いているので5を除く。ここに誤りがある。なぜなら、一方から4を他方から5を除いたので、両者から等しくは除いていない。

だが、私の探求を続けよう。mの2部分が、Pの株で除かれ、同じようにPの下部で除かれ、同じようにqでも欠けている。従って、両者は等しく残っている。このことから、私は一方から4部分を、他方から5部分を除こう。すると、これらは直線図形となって残る。しかも、一部分が欠けているPへそれを返せばSのようになり、qもgのように描かれよう。その後、gをhのような矩形に変形し、かくて得られた等積の図形を、tv図におけるように互いに重ねよう。重なり合っているt部分の外に、v部分と等しい面積Pr部分が残される。rは方形にされているので、私は直線からなる先端を持つvに重ねる。すると、残りは部分Pと等しくなる。

もしabが等しければ、nmはそれらの等積正方形である。

聖アンドレの夜(1504年11月30日)、灯火も、夜も、また書いてきた紙も尽きるころ、ついに円の求積法を発見した。時間の最後に、結論を得た。