「世界一から転落」日の丸半導体を殺したのは誰か 業界のキーマンが語る「日米半導体摩擦」の顛末 (msn.com)

 

世界ではいま、半導体が「熱い」。

台湾積体電路製造(TSMC)の時価総額は一時1兆ドルに達し、イーロン・マスク氏はAI開発のためエヌビディア製半導体を大量購入。トランジスタの誕生から70年あまりの半導体の歴史の中で、かつてないほどの注目を浴びている。

「半導体の復活なくして、日本の未来はない」と語るのは、2023年まで経済同友会の副代表幹事をつとめ「業界のキーマン」として知られる小柴満信氏だ。

かつては世界シェア50%だった日本の半導体産業は、日米半導体摩擦によって力を削がれ現在は10%を割り込む。日本の躍進はどのようにして阻まれたのか。

小柴氏の著書『2040年 半導体の未来』より抜粋・編集してお届けする。

「中略」

 


半導体の誕生 
半導体が発明される前――レーダーや初期のコンピュータには、電流を制御する部品として、ガラス製の「真空管」が使われていた。ただ、部品としてはかさばりすぎるうえ、信頼性がない、消費電力が大きいといった問題があった。そんな中、1948年、アメリカのベル研究所が接触型トランジスタを発明する。

「中略」
それでもコンピュータに必要な数千個のトランジスタをプリント基板に並べ、1つひとつはんだで配線するのは複雑すぎたし、電子機器を小型化するうえでも支障がある。
そこで、配線を簡略化しようと開発されたのが、1つの基板の上に複数のトランジスタや配線をまとめてしまう方法だった。1958年に集積回路(IC)の概念が発表され、これ以降、集積回路のことを半導体あるいはチップと呼ぶようになった。

当時の技術者の1人が、フェアチャイルドセミコンダクター社のゴードン・ムーアだ。

ムーアは1965年、集積回路の未来について『エレクトロニクス』誌から論文を依頼され、そこに次のような予測をしたためた。

「少なくとも今後10年間、ICの集積度は、1.5年で2倍、3年で4倍になっていくだろう」

集積度とは、1枚のシリコンチップ上に搭載できる部品の数を表す。つまり集積度が高くなるほど性能は上がる。1975年には「2年に2倍ずつ性能が上がる」と修正され、これらの言葉は、のちに「ムーアの法則」として知られていく。

1968年、ムーアらはフェアチャイルドセミコンダクターを離れ、インテルを創業する。

2年後に最初の製品として発売したのが、世界初の「ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ(DRAM)」だ。

それまでコンピュータは「磁気コア」と呼ばれる、金属のリングをワイヤーでつないだものでデータを記憶していた。ただ、磁気コアの容量アップには限界があった。

そこで、例の集積回路を使って開発された記憶装置がDRAMだ。電荷をためる機能を持つコンデンサという部品とトランジスタをつないで記憶素子(メモリセル)を構成している。記憶素子に電荷が蓄えられた状態を「1」、蓄えられていない状態を「0」としてデータを記憶する。DRAMは、現在でもコンピュータのデータ保存を担う重要な半導体(メモリ)である。

DRAMで躍進した日本
トランジスタが発明された1948年といえば、日本はまだ、敗戦からの復興にもがいていたころだ。そんな中、アメリカ政府は、日本にトランジスタを使った製品を開発させようと支援した。

その一例がソニー(当時は東京通信工業)である。WE(Western Electric)社からトランジスタの製造特許を取得して製造した「ソニーラジオ」は、安さと性能からまたたく間に世界を席巻した。自社でトランジスタを製造し、ラジオをつくったのはソニーが世界最初だった。シャープ(当時は早川電機)が1964年にいち早く電卓に搭載したトランジスタもアメリカ製だ。

「中略」
しかし、日本はアメリカの思惑をはるかに超えるスピードで成長した。そのことが、両国に摩擦を引き起こす。

1970年代から1980年代初頭にかけて、日立製作所、東芝、富士通、NECなどは、DRAMの製造で世界を席巻し始めていた。煮え湯を飲まされていたアメリカの半導体企業は、「日本企業は日本だけでなくアメリカでも保護されており、不当な恩恵を受けている」と不平を隠さなかった。

テキサス・インスツルメンツ(TI)やナショナルセミコンダクターも、DRAM部門のレイオフに追い込まれた。危機感を覚えたアメリカ企業は政府に猛烈なロビー活動を行い、1984年に「半導体チップ保護法」が成立する。半導体関連の知的財産の保護を強化する法律だ。

その陰で、インテルは1985年にDRAM事業からひっそりと撤退する。

「日米半導体協定」が締結
1986年に日本が半導体生産量でアメリカを抜き、DRAMで8割の世界シェアを獲得する。ことここに至り、アメリカはついに最後の一手を打った。1987年に「日米半導体協定」の締結を日本に迫ったのだ。

この協定は、日本製DRAMの対米輸出量を制限するものだった。だが、これによって半導体の数量は減ったものの価格はむしろ高騰したため、日本企業は経営的にほとんどダメージを受けなかった。

 
1988年には、日本が世界の半導体生産額の50%を超えるまでに成長する。そのため、1991年の新協定で、「日本国内の外国製半導体のシェアを従来の10%から20%まで引き上げる」という厳しい条項が盛り込まれた。

「中略」

途中からは、メインフレームと呼ばれる大型汎用コンピュータに、品質が高くこわれにくい日本製DRAMがつぎつぎと搭載され、日本の半導体シェア拡大を後押しした。

その一方で、1981年にはIBMのパソコンが世界的にヒットし、コンピュータに革命が起こり始めていた。アップルは1984年に初代マッキントッシュを発売。翌1985年にはマイクロソフトがパソコン用のオペレーティングシステム(OS)を開発する。

そこで息を吹き返したのがインテルだ。DRAMから撤退して以降、パソコン向けのマイクロプロセッサーに専念していたことが功を奏した。それまでの円安ドル高が一転、円高ドル安となり、輸出価格が相対的に安くなったことも追い風になった。

1992年には米コンパック・コンピュータが、インテル製チップとマイクロソフトOSを乗せたパソコンを、IBMのパソコンよりはるかに安価で売り出す。これをきっかけに世界のパソコン出荷台数は激増し、インテルもさらに勢いづく。

1995年にはマイクロソフトがOS「ウィンドウズ95」を発売し、パソコンが一般家庭にも浸透し始め、インテルは、半導体メーカーとしての地位を完全に取り戻した。

インテル、サムスンによる“日本潰し”
このころから、韓国のサムスン電子が台頭していく。1980年代に半導体製造に乗り出したサムスンに、インテルは技術やライセンスを惜しげもなく供与した。当時、韓国のコストや賃金は日本より大幅に低かったため、韓国製DRAMが日本製DRAMを駆逐できるのではないかと考えたのだ。

この“日本潰し”は見事に当たった。

DRAMの大口顧客であったメインフレームは1990年代になるとすっかり影を潜め、主役はパソコンに完全に替わっていた。その心臓部に、インテル・ブランドを冠したサムスン製DRAMがつぎつぎと採用され、日本の半導体各社を直撃したのである。

日本の世界シェアはずるずると後退し、逆に、日本国内での外国製半導体のシェアは1996年になって20%――つまり例の新協定で設定された水準に達した。これによって日米半導体協定は失効した。

以上、日本が10%を下回るほど半導体のシェアが下がった話でした。ほぼインテルとサムスンのせいで日本版半導体をつぶされたことがよーくわかったはずです。TSMCを逆手に利用して最低でも日本版半導体シェアが10%を超えるほど増やしましょう。たとえインテルどもがいじめ同然の妨害をしたとしてもねな・

中国の台湾侵攻による半導体危機に対し、欧州テック大手が示した対中「奥の手」とは (msn.com)

 

アメリカが事実上、油断しすぎるほどすきがおおいから中国政府による半導体侵略が進んでんだよ!わかってねーな!!