こんにちは、ユーヤエメリヤーエンコです。俺の好きな有名人シリーズ第二弾はアメリカカリフォルニア州知事を退任したアーノルド・シュワルツェネッガー、通称シュワちゃんを紹介します。
まずはシュワちゃんの生い立ちを説明
シュワルツェネッガーはオーストリアのシュタイアーマルク州の州都グラーツから6km離れた地のタール・バイ・グラーツで、警官のグスタフ・シュヴァルツェネッガー(1907 - 1972)と、アウレーリア・ヤドルニー(1922 - 1998)の間に生まれた。父グスタフはナチス党員(突撃隊員)であり、アーノルドが生まれる3年前に除隊している
シュワルツェネッガーは1968年に本格的にボディービルをするためジョー・ウイダーに誘われ渡米、アメリカ合衆国に移り住む。彼は英語が流暢でなく、当時の所持金はわずか20ドルであった。1983年にアメリカ国籍を取得したが、オーストリアの国籍も継続して持っている。UCLAで経営学、政治科学、心理学を学んだ。1979年にウィスコンシン大学から国際市場と経営管理に関してB.A.(Bachelor of Arts)を得た。朝にトレーニングをしてから大学に行き、帰宅したらトレーニングをする日課があり、勉強とトレーニングを両立させる毎日を過ごしていたとのこと。
異父兄弟マインハルトは1971年に自動車事故で死亡、父親のグスタフはその翌年死亡している。1977年に彼は自叙伝『Arnold: The Education of a Body-Builder』を出版している。1986年にはケネディ元大統領の姪でCBSのテレビ・ジャーナリスト、マリア・シュライヴァーと10年越しの交際の末 結婚した。2人の間には4人の子供がいる。
次はボディビルダー経歴について
シュワルツェネッガーはボディビルダーとしても有名で、10代のころから競技を始め、オーストリアの故郷に居た頃は自前のウェイトトレーニング設備がオーストリアの寒さによって冷やされトレーニングの際には鉄が手にくっついてしまったというエピソードもある。
兵役義務の頃に、軍に無断で外出をしてボディビル大会に参加もしている。当然ながら無断で外出をするのは規律違反であり、営倉(軍隊内にある牢獄)に入ってしまう。しかし大会で優勝していた影響もあり、すぐ放免になった。その鍛え抜かれた肉体は「オーストリアン・オーク(オーストリアの樫の木)」の愛称をもたらし、ジュニア・ミスター・ヨーロッパ、ミスター・ワールド、五回のミスター・ユニバースなどのタイトルを得ている。
その後いったんは俳優業に移るものの、1980年に突如としてボディビルに復帰した。この復帰はかなり突然のものであり、他のオリンピア出場者が飛行機で乗りあった際も映画の撮影であると思われていたといわれている。この大会において優勝7回という大きな記録を作り上げたが、事前に審査委員がアーノルドと親しい人物と変わっていたり、明らかに体の仕上がりが甘い、映画の宣伝を兼ねた勝利だとの声も上がり疑惑が残ったままの勝利と大論争を巻き起こすこととなった。この際に、優勝を確信されていたマイク・メンツァーはその後もアーノルドと険悪な関係が続いた。
達成した合計7回の優勝という記録は、リー・ヘイニーが1991年に、ロニー・コールマンが2005年に共に連続8連覇を成し遂げるまで破られなかった。また連続という点では、ドリアン・イエーツが1997年に連続6連覇を成し遂げている。ちなみにロニー・コールマンへのトロフィー授与の際にはアーノルド自身も立ち会った。
1980年以降ボディビルの大会に選手としては出場していないものの、主にボディビルの知名度を上げるための活動に力を入れており、カリフォルニア州知事となった現在でもオリンピアなどに顔を出し、とくに自身の共同主催するアーノルド・クラシックにはどんなに忙しくても毎年必ず出席している。彼は知名度の向上に非常に大きく貢献した点などでボディビルの歴史に於いても特に重要な人物と見なされている。
次は俳優経歴について
全米ボディビルダーで優勝を飾った後、専門のボディビルダーとして大衆から飽きられることに危機感を持った彼は、俳優への転身を図る。その体格を見込まれ、『SF超人ヘラクレス』(1970年)のヘラクレス役としてデビュー。
1977年にドキュメンタリー『鋼鉄の男』に出演する。彼はこの映画を政治家への障害と見なし、1991年に映画の権利、未使用フィルム、スチル写真を購入した。シュワルツェネッガーはこの映画に関しての議論を拒絶しているが、批評家は写真を根拠に彼は目とあごに少なくとも一回の美容整形手術を行っていると主張する。
1984年にジェームズ・キャメロン監督によるSF映画『ターミネーター』(1984)に出演、同作の悪役アンドロイド「ターミネーター」として有名になり、アクション映画俳優として確固たる地位を築き上げる。彼はまた自らの演技にコメディの要素を取り入れることに成功し、それまでのアクション俳優にない「知的」な印象を持つ俳優として人気が出始め、スターとしての地位を確立した。
1987年の『プレデター』(1987)にはミネソタ州知事ジェシー・ベンチュラとケンタッキー州知事選に出馬経験のあるソニー・ランダムが出演している。アクション映画以外にも、名優ダニー・デビートとの競演によるコメディー『ツインズ』(1988)に出演、役柄を広げた。コメディー路線としては『キンダガートン・コップ』(1990)なども挙げられる。前述の二作品におけるそれまで見せる事のなかったコミカルな演技によって、これまでのアクション路線とは一線を画す、新しい境地を見つけたと評価された。
『トータル・リコール』(1990)は当時における史上最高額の制作費が投入された映画であり、その多くは特殊効果を含む美術面と、この時点で1000万ドルを突破した彼の出演料に費やされた。出世作である『ターミネーター』の続編『ターミネーター2』では、役柄が悪役からヒーローへと変わった。1作目とは全てが大きく異なる環境の中で拡大上映された結果、本作は全世界での興行収入が5億6千万ドルを超え、トップスターとしての地位を不動のものにした。が、その後、『ラスト・アクション・ヒーロー』(1994)で製作・主演をするが興行収入が振るわず、1997年の『バットマン&ロビン Mr.フリーズの逆襲』は大失敗、酷評される。2003年の『ターミネーター3』で大復活を果たすが、内容そのものは様々な場所で酷評されている。
『ターミネーター』における台詞「I'll be back」(また戻ってくる)は世界的に有名となっており、来日した際や日本のマスメディアのインタビューの際には必ずこの台詞を発している。
2004年『80デイズ』を最後に、下記のカリフォルニア州知事選などの政治業を主に行うため俳優業を暫くの間休業することになった。そのため、『ターミネーター4』には出演しなかったが、若き日の顔をアーノルドとよく似たローランド・キッキンガーの体にCG合成することで出演している。また、後に一家で鑑賞した後に子供達に「シリーズ最高の傑作だった」と言われて深く傷付いたとのこと。余談だが心理学者等から「米国各地で起きたハイスクールにおける高校生の銃乱射事件が、『コマンドー』などの乱射シーンの影響によるものではないか」という意見が示され、以後、同様作品への出演を控えている。
次は政治経歴について
2003年8月にカリフォルニア州知事のグレイ・デイヴィスがリコールされたことを受け知事選へ出馬し、リコールで失職したグレー・デイビス知事(民主党)への反感も手伝い、民主党票も取り込んで有権者の約半数の支持を受けて当選した。これはシュワルツェネッガーの立場(同性愛者の権利や妊娠中絶などについての考え方)が民主党のそれに近いこと、彼が移民であることなどから部分的には説明されたとも言われる。当選した際は「当選したからには私に休みはない。24時間、州知事だ」と声明を発表した。10月7日にカリフォルニア州知事に選出。
カリフォルニア電力危機などによって60億ドルにも上る負債を抱えた州の財政をどう再建するか、経済をどのように活性化させるかが特に重要視され、シュワルツェネッガーは「増税なき財政再建」を掲げたことで注目された。と同時に、その公約を裏打ちするだけの具体的な政策がないことを指摘、批判する声もあった。
2004年9月、屍姦(ネクロフィリア)を禁止する法案を承認。これまで法的に罰することが出来なかった死体との姦淫が公式に違法となった。同年11月13日に来日して小泉純一郎首相(当時)と会談してカリフォルニアの名産品のアピールと売り込みに来た。
2005年9月、シュワルツェネッガーは10代の肥満防止対策として州立高校での炭酸飲料の販売を禁止する法案に署名した。これにより今後州立高校の敷地内で販売できる飲料は水、牛乳、果汁50%以上のジュースなど一部のものに限られる。2005年11月、シュワルツェネッガーは財政改革のための州憲法改正など、4項目を問う住民投票を行ったが、4項目とも大差で否決されてしまった。これにより、シュワルツェネッガーの政治力の低下は避けられないという指摘もなされた。また、同年12月13日にはスタンリー・ウィリアムズ死刑囚の恩赦請求を拒否することを発表した。ウィリアムズは4人を殺害した元ギャングの死刑囚で、収監後、改心し反ギャング活動を行い2001年から2005年の間ノーベル平和賞にノミネートされ、多数の減刑嘆願書が出されていた。しかしシュワルツェネッガーは、ウィリアムズが自身の犯した殺人事件を依然として否認し、謝罪も行っていないことから「証拠を検討したが、恩赦を出す余地は見いだせなかった」と今回の決定を説明した。この決定に従い、予定通り12月13日午前0時1分(現地時間)にウィリアムズへの薬物注射による死刑が執行された。これに伴い、同年12月27日までにシュワルツェネッガーの出身地であるオーストリア南部のグラーツで、1997年に改名されたサッカー競技場アーノルド・シュヴァルツェネッガー・スタジアムから彼の名前が撤去された。オーストリアでは1950年に死刑制度を廃止し、今回のシュワルツェネッガーの死刑執行命令に批判が高まっていた。
2006年9月8日、非公式の場で共和党のヒスパニック系女性議員に対し差別的な発言を行ったことを記者会見で謝罪した。ただし、彼はこの発言の証拠となるテープの出所が中間選挙での対立陣営からだったとしてその信憑性を疑問視している。総じて1期目は民主党主導の議会や労組との対立に苦慮し続けたが、ケネディ家に連なる妻の人脈や中道寄りの政治路線によって困難な政治局面を乗り切り、2006年11月の州知事選で再選にこぎつけた。従来から環境問題等に力を入れて、女性票や民主党票を取り込んだ事に成功したためだと言われている。2007年1月5日スキー事故で骨折するが、松葉杖で夫人と2期目の知事就任式に臨んだ。
2007年10月にカリフォルニアを襲った山火事は、州知事就任後最大の試練となったが、災害対応において卓越した指導力を発揮し、党派を越えた賞賛を得た。
2008年1月31日に、ロサンゼルス市内で同じ共和党所属で大統領候補のジョン・マケイン上院議員と共に記者会見を開き、2008年アメリカ合衆国大統領選挙においての支持を表明。マケイン上院議員とは地球温暖化問題などで協力するなど古くからの友人で、マケイン上院議員はシュワルツェネッガーが計画する州独自の排ガス規制に賛意を示していた。しかし、シュワルツェネッガーの妻であるマリア・シュライバーは2月3日、民主党のバラク・オバマ上院議員の支持を表明したため、夫婦で別々の政党の候補を支持する形となった。一方で排ガス規制を提案しているのにもかかわらず、自身はビジネスジェットで通勤しており矛盾を指摘されている。
2009年5月、州の財政難を受け米国民の間でも未だ根強い議論が続いているマリファナ合法化について“検討すべき”だとガーディアン紙に対しコメントした。およそ2年後の2011年1月3日、カリフォルニア州知事退任。
シュワルツェネッガーの行政手腕はかなり厳しく、財政再建が失敗した影響で財政赤字がが2004年当時の8200億円の3倍に膨れ上がるなどの影響もあり支持率が22%になってしまった。ただし、環境政策についてはかなりの高評価を得ており、太陽光発電など「脱化石燃料」政策も推進した。
ちなみに退任後は俳優業の復帰とも、環境問題の専門家として政治に関わっていくともいわれている。
俺がシュワちゃんのどこが好きかというと、やっぱりターミネーターを演じていたことかな?ターミネーターシリーズは昔よく見てたけど、今は嫌いです。なぜなら、ターミネーター3のラストが気に入らなかった影響によるものです。
今日はここまで。あしたもシュワルツェネッガーの続きを書くかも?
$ユーヤエメリヤーエンコのブログ

参考資料

ウィキペディア
朝日新聞