アウグスチヌスの言葉
神が人となられたのは、なぜか。
人間であるあなたは、神に届くことができないが、
他の人間になら届くことができる。
そして今、あなたは、ひとりの人を通して神に届くことができるようになった。
なぜなら、人として来られたキリスト・イエスが、神と人類との仲介者になってくださったからだ。
神は人と なられた。
それは、その人に従うことによって(これならあなたにもできる)、
あなたが神に届くことができるようになるためである。
かつてこれは、あなたには不可能なことであった。
人間であるあなたは、神に届くことができないが、
他の人間になら届くことができる。
そして今、あなたは、ひとりの人を通して神に届くことができるようになった。
なぜなら、人として来られたキリスト・イエスが、神と人類との仲介者になってくださったからだ。
神は人と なられた。
それは、その人に従うことによって(これならあなたにもできる)、
あなたが神に届くことができるようになるためである。
かつてこれは、あなたには不可能なことであった。
初めての聖餐式
ある曇った早朝、私は教会に足を踏み入れ、ひとかけらのパンを食べ、ひとくちのワインを飲んだ。その時の私は51歳だった。キリスト教会の信者にとっては、当たり前の日曜日のひとこまであるが、私にとっては違っていた。教会に入る直前まで、私は世俗的な生活にどっぷりと浸り、宗教には全く無関心で、宗教熱心なクリスチャンにはほとほとあきれていた。そんな私がこの日初めて聖餐式にあずかったのである。そして、この聖餐式が私のすべてを変えた。
私はその日、イエスのからだを食べるという驚くべき経験をした。まさにこの経験が、それまで自分が馬鹿にしていたキリスト信仰を持つようになり、考えたこともない働きをするきっかけとなったのである。そして、この神秘的な聖餐式で使われるパンがただの象徴ではなく、まことの食べ物であり、しかも生ける命のパンであることを知った時に、私はキリスト(教会)のからだの一部になりたいという強い思いに満たされた。 そして、これまでの人生で私がし続けて来たことこそ、私の使命であることを悟った。それは、人々に食事を提供することである。
私はそれを実行に移した。私は聖餐式にあずかり、次の人たちにパンを手渡した。それから、その使命に生きることを始めた。今私は、自分が経験したことを分かち合うための新たな方法を見つけたいという思いに突き動かされている。
私はその日、イエスのからだを食べるという驚くべき経験をした。まさにこの経験が、それまで自分が馬鹿にしていたキリスト信仰を持つようになり、考えたこともない働きをするきっかけとなったのである。そして、この神秘的な聖餐式で使われるパンがただの象徴ではなく、まことの食べ物であり、しかも生ける命のパンであることを知った時に、私はキリスト(教会)のからだの一部になりたいという強い思いに満たされた。 そして、これまでの人生で私がし続けて来たことこそ、私の使命であることを悟った。それは、人々に食事を提供することである。
私はそれを実行に移した。私は聖餐式にあずかり、次の人たちにパンを手渡した。それから、その使命に生きることを始めた。今私は、自分が経験したことを分かち合うための新たな方法を見つけたいという思いに突き動かされている。
消防署は弱者のために
教会の仲間に、消防士をしている兄弟がいる。近頃彼は、イエスを信じるのは弱者だ、と同僚の1人にののしられたという。私は、この発言の中には皮肉的要素があると思った。
我が家の外庭には、消火栓が設置されているが、その消火栓を見て恥じたことなどない。また、消防署の前を通りかかっても、この地域に弱者がいなければ消防署は必要ないのにと考えたことはないし、消防活動に使われる税金を支払う時に、怒りを覚えたこともない。
ある人の家が火事になったと考えてみよう。火の勢いが激しく、手がつけられない状況で、消防車がサイレンを鳴らして到着する。すると、この家の住人が家から飛び出して来て、怒りにまかせてこう言う。 「うちの家に来るなんてどういうことだい?俺がこの火を自分で消せないとでも思っているのか?消防士は弱者のために必要なのであって俺には必要ない!」
こんなことを言う人をあなたはどう思うだろうか。きっとその人は正気ではないと感じるだろう。
私たちは、消防署が弱者のためにあると分かっている。自分の力だけではどうにもならない「火のカ」を知っているからだ。だから、私たちは消防士を尊敬している。消防士は、犠牲を覚悟で火に立ち向かい、我々の要求に応えて力を尽くしてくれるからだ。
消防署を持っている町が弱いと言うなら、同じ意昧でクリスチャンもまた弱いと言える。クリスチャンとは、対応不可能なカの存在を知っている人々のことである。そのカとは、「神の聖さ」だ。弱さの認識は、恥ずべきことではなく、喜びにつながることである。なぜなら、十字架上でご自分を犠牲とすることによって、そのカに立ち向かい、神の要求に応えられたイエス・キリストというお方がおられるからである。炎の中から救い出された時に、自分の弱さを考える人はいないだろう。むしろ自分を救うために危険を冒してくれた人がいることに大喜びするはずである。
我が家の外庭には、消火栓が設置されているが、その消火栓を見て恥じたことなどない。また、消防署の前を通りかかっても、この地域に弱者がいなければ消防署は必要ないのにと考えたことはないし、消防活動に使われる税金を支払う時に、怒りを覚えたこともない。
ある人の家が火事になったと考えてみよう。火の勢いが激しく、手がつけられない状況で、消防車がサイレンを鳴らして到着する。すると、この家の住人が家から飛び出して来て、怒りにまかせてこう言う。 「うちの家に来るなんてどういうことだい?俺がこの火を自分で消せないとでも思っているのか?消防士は弱者のために必要なのであって俺には必要ない!」
こんなことを言う人をあなたはどう思うだろうか。きっとその人は正気ではないと感じるだろう。
私たちは、消防署が弱者のためにあると分かっている。自分の力だけではどうにもならない「火のカ」を知っているからだ。だから、私たちは消防士を尊敬している。消防士は、犠牲を覚悟で火に立ち向かい、我々の要求に応えて力を尽くしてくれるからだ。
消防署を持っている町が弱いと言うなら、同じ意昧でクリスチャンもまた弱いと言える。クリスチャンとは、対応不可能なカの存在を知っている人々のことである。そのカとは、「神の聖さ」だ。弱さの認識は、恥ずべきことではなく、喜びにつながることである。なぜなら、十字架上でご自分を犠牲とすることによって、そのカに立ち向かい、神の要求に応えられたイエス・キリストというお方がおられるからである。炎の中から救い出された時に、自分の弱さを考える人はいないだろう。むしろ自分を救うために危険を冒してくれた人がいることに大喜びするはずである。
仕事を通して神に仕える
過日、わたしはキリスト教会の牧師に近づき、どうすれば神に仕えることができますか、という質問をした。牧師は、「あなたの今の仕事は何か」と尋ねました。わたしは、「裁縫師です」と答えました。
わたしは、牧師が与えた助言に驚きました。「それなら、良い服を作り、それを妥当な値段で売りなさい」と。牧師は、「クリスチャン・洋服を作れ」とは言わなかったし、裁縫の仕事を辞めて執事になれとも言わなかった。
クリスチャンである私たちは、さまざまな職業を通して神に仕えることができる。その仕事が「霊的かどうか」、「伝道に役立つかどうか」などと論じきる必要はないのです。神に栄光を帰すという動機で、最高の仕事を追求すればよいのですね。
わたしは、牧師が与えた助言に驚きました。「それなら、良い服を作り、それを妥当な値段で売りなさい」と。牧師は、「クリスチャン・洋服を作れ」とは言わなかったし、裁縫の仕事を辞めて執事になれとも言わなかった。
クリスチャンである私たちは、さまざまな職業を通して神に仕えることができる。その仕事が「霊的かどうか」、「伝道に役立つかどうか」などと論じきる必要はないのです。神に栄光を帰すという動機で、最高の仕事を追求すればよいのですね。
キリストにある喜び
昔母ちゃんがよく、「食事の前に飴を舐めてはだめよ」と言っていた。どうしてそう言ったのか。その理由は、飴は次の食事を台無しにしてしまうからである。飴を舐めると、血糖値が急激に上がり、食欲を感じなくなる。つまり、体が蛋白質やビタミンを必要としていることを忘れさせるのである。その結果、体に必要な栄養素を取らなくなる。
人間には性欲、権力欲、物欲、成功への欲求などがある。自分に訪れている好機もこの中に含めてもよい。これらはすべて、霊的飴である。霊的飴の影響を受けていても、クリスチャンなら、「自分は神を信じており、天国に行くことを知っている」と告白するだろう。しかし被らは、霊的飴で満足して、地をはうような生活をしている。状況が悪い方に変化すると、彼らは神に向かう。霊的飴が切れたからである。その時になってようやく、本当に魂に必要な栄養を求め始めるのだ。
人間には性欲、権力欲、物欲、成功への欲求などがある。自分に訪れている好機もこの中に含めてもよい。これらはすべて、霊的飴である。霊的飴の影響を受けていても、クリスチャンなら、「自分は神を信じており、天国に行くことを知っている」と告白するだろう。しかし被らは、霊的飴で満足して、地をはうような生活をしている。状況が悪い方に変化すると、彼らは神に向かう。霊的飴が切れたからである。その時になってようやく、本当に魂に必要な栄養を求め始めるのだ。
聖書を読むことの報酬
典子は夫とともに明夫という名の男を見舞った。彼は武骨で独立独歩の人であったが、末期ガンに侵されていた。ベッドに横たわった明夫は、熱心なクリスチャンであった祖父について話し始めた。
祖父は明夫の結婚祝いに高価な革張りの聖書を贈ってくれたそうだ。その聖書には、金文字で明夫と妻の名前が刻まれていた。しかし明夫は、興昧がなかったので、それを箱に入れ一度も開かなかった。それからの数カ月間、祖父は彼に、もう聖書を読んだか、気に入ったかと何度も尋ねた。明夫と妻は感謝の手紙を祖父に送り、直接お礼の言葉も述べたが、それでも祖父は質問し続けた。
ついに明夫は、何があるのか聖書を開けてみようという気になった。「祖父は俺をからかっていたのさ。聖書を開くと、創世記の初めに千円札がはさんであった。それから、新しい書に入るたびに、千円札が出て来た。何と合計6,500円にもなった。祖父は、私が紙幣を発見しないだろうと予想していたのだよ」
祖父は明夫の結婚祝いに高価な革張りの聖書を贈ってくれたそうだ。その聖書には、金文字で明夫と妻の名前が刻まれていた。しかし明夫は、興昧がなかったので、それを箱に入れ一度も開かなかった。それからの数カ月間、祖父は彼に、もう聖書を読んだか、気に入ったかと何度も尋ねた。明夫と妻は感謝の手紙を祖父に送り、直接お礼の言葉も述べたが、それでも祖父は質問し続けた。
ついに明夫は、何があるのか聖書を開けてみようという気になった。「祖父は俺をからかっていたのさ。聖書を開くと、創世記の初めに千円札がはさんであった。それから、新しい書に入るたびに、千円札が出て来た。何と合計6,500円にもなった。祖父は、私が紙幣を発見しないだろうと予想していたのだよ」
