愛する息子に名前を付けた。
実は、この事が分かる前から密かに決めていた名前だったのだけれど。



              David Ryusei
             (デビッド 龍生)



英語の名前には、あんまり意味のない物が多いけれど、「David」には、
「Be Loved (愛される)」と言う意味があるのだそう。


「龍生(りゅうせい)」は、龍の様に力強く、壮大に生きて欲しい。
生まれた後も、ぐんぐんと雲を切って、空高く舞い上がって欲しい。
目には見えないけれど、西洋でも東洋でも、どこかに存在すると
信じられていた龍の様に、いつもどこかで、悠々と存在していて欲しい。
そんな気持ちを込めてみた。


日本名は音の響きだけで、どんな漢字にしようかずっと迷っていたのだけど、
自分達の想いが、ピッタリと当てはまっている様で、とても気に入っている。


「全ての事に意味がある」と信じてる、私と夫。
この世に生を受けても、すぐに死んでしまうと言う道しか与えられなかった
我子の「意味」を考えるのは、決して安易な事ではないけれど・・・。

私達がこの苦難を乗り切ることが出来ず、いつまでもメソメソしたり、
家族がバラバラになったり、お互いが自分を責め合って苦しんでばかりいたら
この子がこの世に生を受けた理由は、「家族を崩壊するため」になってしまう。



そんな事は、決してあってはならない。



だからこそ、強くならなきゃいけないと思う。
それは、まったく別の「強い人間」になろうとするのではなくて、
自分の中に必ず困難を乗り越えていける力が備わっているはずだから、
その「極限に耐える力」を無限大に発揮して、家族同士が支えあい、
励ましあい、泣いて、笑って、もっと笑って、強く、さらに暖かい、
そんな家庭を作っていかなくてはならないと思う。



そうなる事が、この子の使命は




       「家族を一回りも、二回りも大きくする事」




だと、胸を張って言えるから。 そうでなければ、悲しすぎるから。
そして、その使命を受け継げるのは、私たちしかいないのだ。


助かる見込みがないとしても、息子に与えられた時間が短いとしても、


それが息子の寿命。


そう思う事は、息子の命を軽んじているのでも、諦めているのでもない。



たとえ短い一生でも、最高の環境の中、「世界で一番幸せだった」
と思えるような一生を送らせてあげたい。・・・そう、思った。




     安心で心地がいいのなら、一秒でも長く。
     少しでも痛みや苦しみを感じているのなら、
     一秒でも早く、逝かせてあげたい。


         私の願いはそれだけだ。




いつか逝ってしまう息子に焦点を当てるのではなく、
今生きている息子に焦点をあてて過ごして行きたい。



綺麗なものをたくさん見て、聴いて、美味しい物もたくさん食べて、
たくさん笑って、たくさん話しかけて、触ってあげて、感じてあげて、
もっと笑って、もっともっともっと笑って、心穏やかに過ごさせてあげたい。
そして、私たちの元へきてくれた事への感謝の気持ちを、毎日毎日伝えたい。



 それが、この子が元気で生きていてくれる今、唯一私達が出来ること。



時にはやっぱり、なんのきっかけも前触れもなく、自信がパラパラと崩れ落ち、
不安で、悲しくて、泣き出す事が、何度も何度も起こるかも知れないけれど、
泣くのは息子が逝ってしまってから、いくらででも出来るから。




            今、息子は生きている。



だから今は、残された時間を精一杯、慈しみながら過ごして行きたい。



そう決意して過ごした息子との時間に、私は、微塵の後悔もない。



夫婦二人で、ひたすらネットで情報探しをした時。
どこを探しても、出る答えは絶望的だった。
そして、むごいとも言えるショッキングな写真が、
いとも簡単に表示された。


数々の体験記を読んでいく中で、日本ではそのほとんどが、
医師の強い勧めの元、母体へのリスクも考慮されながら、
「人口死産」と言う悲しい決断を迫られていた。


しかし、アメリカでは、過去に息子のようなケースでありながらも
臨月まで妊娠を継続し、出産。そして、その命を自ら看取ると言う
選択をしてきた人たちがいることを知る。



         産むか、見送るべきか。
        いずれにしても助からない命。
        その選択に、正も誤もない。



今生きている息子が、痛みを感じて苦しむのなら、
この命を最後まで見守ると言う事は、かえって息子を苦しめる事になる。


ネットで目にしてきた、正直目をそらしたくなるような、むごい写真の数々。
お腹にいる愛する息子が、その姿で私たちの前に現れたとき、私たちは本当に
目をそらさずにいられるだろうか?本当に可愛いと思えるのだろうか?



でも、それでも。「もしあの時、できる所まで頑張ってたなら・・・」
そう思いながら、一生を生きていく事も、耐え難い事だ。



   「恐怖」は一瞬にして乗り越えられるけれど、後悔は一生続く。



それなら、できる所までやってみた方がいい。
「妊娠を臨月まで継続する」その方が、私たちにとっては、一番「最善」、
いや返ってそれが、一番「容易い」方法だと言う結論に達した。


ただ、その結論が息子を苦しめてしまうだけになってしまったら・・・。
その事だけが気がかりだった・・・。


二回に渡るウルトラサウンド(超音波検査)で分かった事。
それは、赤子が念願の男の子であった事。
そしてその子は・・・、たとえ産まれたとしても、
生きていける確立は「0%」であると言う事。


夫、アダムは、大きな体を震わせながら、声をあげて泣いた。
私は、行き場のない憤りに、吐くまで泣いた。



見るもの、聞くもの、感じるものが、すべて灰色へと変化する。



なぜ、こんな事が起こるのか。私は必死で原因を探した。
「きっと私がこうしたから・・・」思い当たる節を並べては、
ひたすら自分を責めた。



 「先天性の異常なのですから、誰のせいでもないんですよ・・・。」



医師も看護婦も、みんな口を揃えてそう言ったが、いっその事
「あなたのせいです」と言われたら、どんなに気が楽だったか。
そう思うことで、私は逃げたかったのかもしれない。


原因があった方がスッキリする。
誰のせいでもないのに、ただ「死」と言う道しか与えられなかったなんて、
それではあまりに惨いではないか。



  「私が犯した罪」によって、「息子の死」が決定付けられる。



どうか私を罰して欲しい。身が焦げるほど、罰して欲しい。
そう思ったのもつかの間、罰せられるべきなのは私なのに
一番苦しい思いをしてるのは、しょせん息子じゃないか・・と思うと、
自分はなんて偽善的な卑しい生き物なんだと言う、恥ずかしくも、
絶望的な気持ちになった。


助ける事も出来ず、助かる術も全くないなんて、どうしてこんな
不条理な事が起きるのだろう?


世の中には、何の問題もなく産まれた子供をトイレに産み落としたり
窒息死させたり、痛めつけたりする事件が蔓延しているのに、どうして
ここまで望まれて生を受けた息子が、生きていけないのだろうか?




     そんなぶつけ所のない怒りの中、ふと気付いた。




世の中には今こうしている間も、私達が知らないだけで、
毎分、毎秒、誰かが、誰かの大事な人を失っている。


絶望的な病気と闘っている人、それを無力感の中、最大の愛で見守る人。 
子宝にさえ恵まれない人、突然の別れを強いられる人。
見知らぬ誰かに突然命を奪われる人、そしてその一生消えない怒りを
背負い続けて行かなければいけない人。


そんな中、どうして自分たちの身に、何も起こらないと言えるだろう?



そもそも、この世に生を受けて、普通に育っていく事。
産まれたら、そのままずっと何も問題なく生きていく事自体、
当たり前な事ではないではないか。


こうやって「生きている」という事自体が、「奇跡」なんだという事に
改めて気付いた時、私を取り囲む世界の色が、鮮やかに蘇った。


そして、そのシンプルで、最も忘れがちな尊い事実を、
身を持って教えてくれた息子が、ただただ、いじらしかった。