放送委員会で得た生き方 | 脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

2020年3月に脳出血を発症し左片マヒに。リハビリとスピワークを通して、全快復を目指すおじさんの手記。併せて半生を振り返る半生記をエッセイ風に綴っています。

1963年(昭和38年)12月生まれの人間が、脳出血からの左片麻痺で治療中であることを利用しつつ、半世紀以上生きてきた軌跡を振り返る半生記エッセイ。今日はバレーボール部の退部と引き換えに、興味のあった放送委員会の委員になった話。

大勢の人前に立つと、心臓がバクバク鳴って緊張しまくる引っ込み思案のタチであるにもかかわらず、小学生の時から放送委員会には憧れを持っていた。いつも夕方の4時頃になると「今から、下校の放送を始めます」という委員の児童のアナウンスとともに、ドヴォルザークの「新世界より」がスピーカーから聞こえて来て、いつしか「下校の放送を担当してみたい」と思うようになっていた。

小学6年生の時に思い切って放送委員に立候補したもののあえなく選に漏れ、そのままになっていたが、中学2年に進級すると、放送委員の募集があって迷わず応募。すぐに採用の知らせがあり、難なく放送委員になった。

パートはアナウンスと放送卓を操作するミキサーという技術系のパートがあったが、僕は迷うことなくミキサーを務めることになった。声変わり以来、自分の声にコンプレックスをもち、人前で声を発することを極度に嫌っていた身にとっては、自然の選択だった。

職員室の隣にあった放送室には、割と新しめの放送卓が居座り、その操作方法も割とすぐに覚えられた。緊急時に押すボタンは、室内のしゃべり声もすべて放送に乗ってしまうので、絶対に押さないように釘を刺された。

キャビネットには、さまざまな器材が収納されていたが、その中で目を引いたのは、相当古いカセットテープ。
なんと、磁気コーティングされているベースが紙テープだった。当時はカセットテープが普通に売られていて、テープの磁気コーティングされているベースは樹脂テープになっていたが、黎明期のカセットテープはこういう構造だったのか、と改めて知った。

昼休憩時には、放送委員が放送室からお昼の放送を流していた。ビージーズのメロディフェアに始まり、ビートルズのYesterday、ヘイ・ジュードが毎日のようにかけられた。僕も昼休憩時には放送卓で弁当を食べながら卓を操作。
その頃、田中星児の歌うビューティフルサンデーが流行っていて、それも昼の放送のレパートリーに加えられた。

ある時、先輩がフザケて、当時演歌で流行っていたさくらと一郎の「昭和枯れすすき」をかけ、大慌てで職員室から入ってきた先生に「誰や!こんな曲をかけてるのはっ!すぐに止めんかーっ!」と大目玉を喰らったこともあった。

中学2年のこの頃の僕は、何かにつけて斜に構えていた。習いたくもないエレクトーンの個人レッスンで、毎回、先生に叱られ、半べそをかき、数学や理科など、理数系の教科はことごとくついていけてなかった。母からはテストの点数でとやかく言われ、果てはバレーボール部の部活に行かなくなったことを責められ続けた。二の次には「○○くんを見倣いなさい」「○○くんはエラいわ〜」と、他の同級生のことをほめそやした。母にしてみれば僕を鼓舞させるための気付けのつもりの言葉だったろうが、そのほめそやしている対象者にとても及ぶような心境ではなく、相手を羨むとともに、そんな自分を恥じる一方で、消えてしまいたくなることしばしばだった。
そういうこともあって、自分に対して素直ではなくなっていた。

ある時、放送室内でふざけ合っていると、いつも何かにつけて僕を肯定してくれていた先輩から「オマエ、素直やないな」と言われた。

ショックだった。

自分の味方だと思っていた人から否定的なネガティブフィードバックを受けたのはキツかった。

そうか、自分は素直な人間ではないのだ。評価されていないのだ。評価されていないのなら、生きている価値はない。人間をやめろ、と言われているに等しい。それは虚しい。この世から消えてなくなりたい、さりとて、自死する勇気もない。

そこで、「もっと素直になろう、自分の自己肯定感は低くても構わないから、それを悟られないように、もっと素直に振る舞おう」という一つの結論を得、それからはなるべく嬉しく振る舞ったほうが良さげならはわ嬉しがる、という喜怒哀楽にメリハリをつけることを励行し始めた。本来の素直な姿ではないのだが…。

中学校時代の放送委員の活動を通して得た、当面の自分の生き方だった。