食中毒 | 脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

脳出血、重度の左片麻痺からの「めざせ!社会復帰」

2020年3月に脳出血を発症し左片マヒに。リハビリとスピワークを通して、全快復を目指すおじさんの手記。併せて半生を振り返る半生記をエッセイ風に綴っています。

1963年(昭和38年)12月生まれの人間が、半世紀以上生きてきた軌跡を振り返る半生記エッセイ。今日は小学3年生頃に、学校給食からの集団食中毒に見舞われた話。

僕が通っていた富田林市の金剛団地にある高辺台(たかべだい)小学校は、小学校1年生の転校時は給食がなく、午後に授業があるときは決まって弁当持参だった。両親が共働きのいわゆるカギっ子は、弁当を作る時間がないのか、お金を持たされて、学校向かいにあるパン屋さんで菓子パンや惣菜パンを調達し、清涼飲料と共に食していた。
清涼飲料は、コカ・コーラボトリングのファンタが圧倒的に多かったが、中にはペプシコーラ系の「ミリンダ」というドリンクがあって目を引いた。

クラスメートにねだって、瓶入りのミリンダオレンジを飲むと、ファンタとはまた違った爽やかな味が口の中に広がり、一気にとりこになった。

僕もミリンダ飲みたさに母にねだってお金をもらい、パンやミリンダを調達して食したこともある。

そうこうしているうちに市内の小中学校で学校給食が本格的に始まることになり、わが高辺台小学校も範疇に入った。

給食は俗に「センター方式」と呼ばれるもので、市内の給食センターで調理されたものをクラスごとに寸胴鍋に取り分けられ、配送トラックで運ばれる。
クラス内で持ち回りで担当する給食係がそれら惣菜とパンや牛乳を受け取ってクラスに運び、配膳をするというものだ。

校内の職員室下の1階に給食室があったが、ここには厨房がなく、あくまでも配送されてきた食材を受け取る部屋に過ぎなかった。

給食は、該当する学校内で調理するのが相場だったが、コストとの兼ね合いで、センター方式を取り入れる自治体が増えていた時代だ。

さて給食が始まって数か月後、とんでもない事件が起こった。

ある日の給食中のこと。ここから先、食事中の方はご容赦いただきたい。

「うわっ!何これ〜ッ⁉️」

とクラスメートの誰かが叫び出した。
驚いた周囲の子どもたちが、彼の差し出したお椀を覗き込み、「わっ虫やっっ!」「気持ち悪ぅー」「キャー!」と騒がしい。
なんだろう、と自分の腕の中を改めてビックリした。

汁物の惣菜の中に小さな羽の生えた虫の死骸が至るところに浮いているではないか!

驚いた担任のS先生は、
「みんな、食べたらあかん!そのまま鍋に戻して!」
となった。

食材に異物が混入するなど、今の時代なら大事件なのだが、当時はこういうことは日常茶飯事で、いちいち取り上げる間もなかったのだろう、それで事は済んだ。

ところが、ある日の午後の授業が始まった頃、複数の児童が

「せんせー、お腹痛い。」「気持ち悪い」「吐きそう」
と次々に訴え出し、クラス内が騒然となった。
他のクラスでも同様の騒ぎになっていてもはや授業どころではなくなり、早々に授業が打ち切られて全員下校となった。

今で言う集団食中毒だ。
何が原因かわからないが、給食に原因があるのは間違いない。

僕は特段気持ち悪くなるでもなく、至って平気だった。

ところがである。

豆菓子が好きな父が買ってきた煎り空豆をポリポリ食べてしばらくすると急に胸が気持ち悪くなってきた。

そのままリバースすると、激しい下痢に見舞われた。
母が近くのかかりつけ医に連れて行き、内服薬を処方されて落ち着いたが、食中毒の原因が給食だということで、しばらくは給食は中止となった。
午後に授業がある日は、弁当持参に戻ってしまった。

給食が原因の食中毒だったが、症状が生じるきっかけがそら豆だったため、自分の中にはそら豆→食中毒の図式が刷り込まれ、このあと、大人になるまで煎り空豆を口にすることが出来なくなった。

この間、給食センターでさまざまな対策を講じたのだろう、数か月後に給食は再開した。しかし同じ校区内にある金剛中学校ではこの事件を期に給食を辞めてしまった。食中毒以外にも種々の問題があったのだろう。