信じる力、について考えていた矢先

遠くの恩人が亡くなった。

 

その人はずっと私に愛を贈ってくれる人だった。

 

その人から溢れ出たように贈られてくる愛情を私もできる限り贈り返していたつもりだけれど

私の心から出るそれは本当に単なるお返しに過ぎなくて、いくら愛情深く装ってみても

なぜ自分のメッセージの返答や贈り物はこんなに表面的で無機的になってしまうんだろう

と、最近はいつも心のどこかで思っていた。


結局私は、彼女の愛情に応えられていたのか、彼女はメッセージや贈り物をいつも喜んでくれていたけど

内心、死の前に私を思い出すことがあったなら、どう思っていたのか 

もういなくなってしまったのに、不安に思う。

ほとんど会いに行けなかったことを薄情だと思われなかっただろうか。

そんなところも含めた私の社交性や自信の無さを心配されていただろうか。

私は彼女の与えてくれた時間や愛情に見合った人間だったと思ってくれただろうか

どうか思ってくれていたと思いたい


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返事といえば

他の人からたまに来る久しぶりのメッセージに対しても、心が伴いにくいことがある。

もともと希薄なのではなく

昔とても無邪気に楽しくつきあっていて、お互い心を動かされてその後、疎遠になった人ほど返事が難しい‥

もう、あなたの知っている あなたの思ってくれていた私じゃないんだ 

そう思いながらメッセージを打つ影の自分がいる。

元気?、どうしてる?会いたいね、すごいね、 大丈夫?…

メッセージを貰って、嬉しい、ありがたいと思うのもつかの間

自分の中身の無い返事をなんとか義務的に思われない程度に返さなければ、という義務感で返事している。

なんというか、真意であると心から思いきれない言葉になってしまうのだ。

サイコだな‥と自分でも思う。


それと比べると、彼女からのメッセージは愛情が溢れまくっていたので、私も本当の感情を出しやすかった。

彼女は私のピュアな部分を、たぶん一番良く、良い形で知ってくれていた


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恩人が亡くなってしばらく経ってから、「自己愛」についての本をオーディブルで聴いていた時

「セルフスティグマ」という言葉を知った。

 

スティグマ、いわゆる烙印

特定の人の状態に対して社会が持つネガティブなイメージを

自分自身が自分に対して烙印のように信じ込み、持ち続けてしまう事を「セルフスティグマ」というらしい。

誰にでも大なり小なりある話だけれど、性的マイノリティにはわかりやすい話だと思う。

 

本では引きこもりの人に関する話で、精神科医がひきこもり当事者に対して

「あなたは価値のある人です」といくら伝えたり、どれだけ根拠を示しても

引きこもり当事者の人の大半は

「私に価値がない事は、私が一番良く知っている」という

ひきこもり(とその要因)のセルフスティグマに陥っているので、心に届きにくい

という話だった。

 

私はひきこもりではないけれど、これ自分の事だ と思った。

「愛情のバケツに穴が開いている」という表現はよく聞くし、自分の愛情のバケツが壊れていることも気づいていたけど

なんで壊れているのかわからなかったし直す方法もわからなかった

直らない穴の名前が「セルフスティグマ」だ

 

私の中の愛情や自信を吸い込むブラックホールの正体は私の依存状態そのものではなくて、その状態をもって自分で自分に烙印を押している事かもしれない、と思った。

「自分は裏があってこのような評価に見合う価値のある人間ではないんです」

「あなたは知らないけどあなたの愛情に自分はふさわしくない」

表面的に愛情や称賛を受け入れたフリをして、セルフスティグマの穴から落とし続けている

 

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私のセルフスティグマを良く理解すれば、穴も直せる兆しがあるのではないか。

自分の中の劣等感をざっと書き出し、少しでも否定できるものは消して

 

・性依存であること

 

結局これが残った。

 

本当はもっとたくさん書いたけれど「ゲイであること、家庭が持てないこと、非社交的」など

果たしてそれの何が問題なのか…?と思うくらい

ある程度ポジティブなイメージが持てるようになったことは外した。

きっと若い頃はそれらがバケツの穴だったのだけど..。塞いできた穴もあったのだと思う。

 

私のこれまでのセルフスティグマは形を変え続けて空いたり塞がったりしてきて今、たまたま性依存なのかもしれない。

 

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「信じる」を軽視してきたと前記事で整理したけれど

セルフスティグマって言い換えればネガティブな方向に「自分を信じる」事ではないだろうか。

だとしたら、私はずっとネガティブな方向に自分を「信じ」続けていたのかも。恐ろしい。

 

<s>「私は性依存だから、私がクズで無価値なことは私が知っている」

「私が作り出したものがいくら評価されても、私がどういう人間か明るみにでればそんな評価もないのと同じ。だから私の作るものに価値はない」

「私がどういう問題のある人間か知れば、あの人も私を軽蔑して離れていくだろう。だったら関係を深めても仕方ない」

「あなたがくれる愛情に私はふさわしくない事を私は知っているし、私のあげられる愛情にも価値がない、本当の私は性依存症者だから」</s>

というネガティブな信じ込みが自分が性依存であること

倫理的におかしな人間であるという考えを補強し続ける。

 

でも、

他人がそうだったら、と考えると

そんな事を言っていたら極論、愛情や賛辞は「なんにも欠点を持たない人だけが受け取れて、一度でもセルフスティグマを持った人は二度と正面から受け取れない」

事になる。

確かに社会にはそういう側面がある。

例えば不倫が明るみにでた人は評価を落とすし仕事が減る。

「私の信じたあの人には裏の顔があったから、もうあの人を好きではないし、知っていたら好きではなかった。」という事もあるだろう。


社会の規範を作って倫理観を高めるためにはそうであった方がいいかもしれない。


でも、セルフスティグマを抱えた人にとって

それを克服するのに一番必要なのはセルフスティグマを意識しない、偽らない「本当の自分」による感情のやり取りではないか。

セルフスティグマを押し続ける影の自分がいるから、愛情や賛辞を受け取れない「自分」

影の自分とは「社会の評価、社会の目」を持った自分かと思う。

これまでずいぶん社会の評価や、社会の価値観を自分の価値と重ねてはいけない、とポッドキャストなどから教わってきたのに

毎日のように社会の評価を自分に叩きつけていた

以前、自分の良くないところばかり見続けたりする癖は良くないとハッキリ思ったのも、コレが理由かと思う。


そもそも社会の評価、社会の規範という物だって

絶対ではなく揺らぐものだ

家庭を守る父、母が多数との性に奔放であっても許される社会であった方が幸せかもしれない。

これは異母、異父兄弟が多く、離婚再婚、パートナー制の多い国に滞在して実感した事でもある。

たまたま私が幸せそうな人達や瞬間しか見なかったからかもしれないけれど、少なくともそういう社会もある。

倫理観というのは特定の社会集団の中で節度を守って、生活が破綻しないようにあるものであって

人の性質をむりやり縛るための物ではない。


(だから、もっと性依存を楽しもう、というのではなく

 性依存である状態をもってして自分が無価値であると思う根拠がそもそも薄い、という事が言いたい)

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「性依存」に対する私のセルフスティグマをポジティブな信じ込みに変換する

 

 信じる力が鍵だと認識できた今なら、セルフスティグマをポジティブな物に変換してそれを信じることに挑戦できるかもしれない。


「私は性依存だけど、それ以外はギリギリマトモだと思うし、性依存である事だけで自分の価値は決まらない」

「そもそも社会の評価と自分の自分自身に対する評価はリンクしないし、させるべきではないので、自分自身の本当にしたいことができているならそれは自分にとって価値のある状態である」

「他者から受け取る愛情や評価は、他者からみた私の1側面に対する物であるかもしれない。そうであっても、その側面において私がその人にとって愛情や評価に値するのは事実なのだから 素直に受け取り感謝すべき。人から見える、どんな側面も、私自身がこうありたいと思える自分なのであれば、それは本当の自分。」


もし、どんな人にも社会的欠点がある、という前提で誰かが私を愛してくれるなら影の自分さえも愛を受け取っていいかもしれない。

もしかしたら、恩人である彼女はそういう風に私を愛してくれていたかもしれない。

彼女の周囲の人に対する深い愛情は

そうかもしれない、と私にも思わせてくれた。

パートナーも友人もこれから知り合い好きになる人たちも

相手の未知の社会的欠点も含めて

その人の全部を心から愛したい。