カラマーゾフの兄弟に的を絞って、文学の価値について最近考えている事を言語化する。
【きっかけ】
私は原卓也訳が好きである。文章が読みやすい。かといって、軽いわけでもない。作品そのものが持っている重さはちゃんと残っているのだろうが、文章が変に堅苦しくない。そのくらいの書き方がちょうどいいと思っている。
『カラマーゾフの兄弟』は、内容だけを取り出してもかなり面白い小説だと思う。家族、宗教、道徳、自由、罪、愛など、いろいろな問題が一つの物語の中に詰め込まれている。
ただ、最近になって、この「内容が面白い」という読み方だけでは足りないのではないかと思うようになった。
そのきっかけの一つが、父親であるフョードル・パーヴロヴィチ・カラマーゾフの人物造形だった。
原卓也訳を読んでいると、フョードルのことを「道化」と呼ぶような場面が出てくる。これを読んだとき、私は太宰治の『人間失格』に出てくる「道化」というものを思い出した。
もちろん、『カラマーゾフの兄弟』と『人間失格』が同じことを言っているという話ではない。けれど、人間が他人の前で自分をどう見せるのか、自分自身をどう演じるのかという問題を考えてみると、どこか近いものがあるように感じられる。
こういう連想ができるのも、翻訳された文章を読んでいるからこそなのかもしれない。原文ではどのような言葉が使われているのか、それがどのようなニュアンスを持っているのかは、ロシア語を知らない自分には完全には分からない。それでも、原卓也訳の「道化」という言葉から太宰の『人間失格』を思い出した。
こういうところに、文学を読む面白さがあるように思う。
【内容について】
そして、『カラマーゾフの兄弟』について話すなら、やはり「大審問官」の話は外せない。
「大審問官」は、『カラマーゾフの兄弟』の中に出てくる、いわば「話の中の話」である。次男のイワンが、三男のアリョーシャに対して語る小話だ。
アリョーシャは敬虔なロシア正教徒である。一方、イワンは理性や知性を重視する懐疑的な人物であり、神や宗教についても簡単には信じることができない。
この二人が兄弟として向かい合っているという構図そのものが面白い。単に思想の違う二人を登場させるのではなく、その二人を兄弟にしてしまうことで、思想の対立が抽象的な議論だけではなく、人間同士の対話を傍観できるからだ。
そのイワンが、神の存在について考えるときに持ち出すのが、子供の苦しみである。
子供は無垢である。まだ何も罪を犯していない。もちろん、現実には子供も完全に無垢な存在だと言い切れるわけではないが、少なくとも大人が自分の罪や責任を説明するような仕方では、子供の苦しみを説明することができない。
それなのに、その子供が理不尽に苦しめられている。
そこにイワンは矛盾を覚える。
もし神が存在していて、この世界が神の秩序のもとにあるのなら、なぜそのようなことが起こるのか。
神がいるのなら、なぜこんなことが許されているのか。
イワンが突きつけているのは、単純な「神はいるのか」という問いではないと思う。
神というものを一つの装置として考えてみれば、そこから国家や法律、あるいは社会そのものに対する問いへも広がっていく。どれも善悪を規定する秩序、規範(norm)だから。
あるものが「正しい秩序」として存在している。しかし、その秩序によって説明することのできない苦しみが現実に存在しているとしたら、その秩序そのものを正しいものとして受け入れてよいのか。
法律が正しいからといって、その法律によって生じた結果まで正しいと言えるのか。
国家が正しいと言っているから、それを正しいものとして受け入れてよいのか。
神についての問いという個別的なアイデアが、人間が作ったあらゆる「正しさ」に対する普遍的な問いへと広がっていく。
私はこういうところが好きで、『カラマーゾフの兄弟』は傑作だと思っていた。
ただ、最近になって、この「内容が優れているから傑作だ」という考え方そのものについて少し疑問を持つようになった。
【形式について】
これまで私は、小説を読むときに「何が書かれているのか」ということをかなり重視していた。
この作品は何を言っているのか。作者は何を問題にしているのか。登場人物は何を考えているのか。
つまり、作品の「内容」を中心に読んでいた。
もちろん、それ自体が悪いことだとは思わない。『カラマーゾフの兄弟』を読んで、神や道徳について考えることには十分な意味がある。むしろ、そういう読み方ができることこそ、この作品の大きな魅力だと思う。
しかし最近は、それと同時に「どうやって書かれているのか」ということも重要なのではないかと思うようになった。
小説には、「何が書かれているか」と「どう書かれているか」という二つの軸があるのではないか。
同じことを語っていたとしても、文章の書き方が違えば、読んだときの印象は変わる。
どの言葉を選ぶのか。
どの順番で出来事を並べるのか。
誰の視点を見せるのか。
どこまで語るのか。
会話にするのか、独白にするのか。
そうした一つ一つの選択によって、同じ「内容」でも作品として現れるものは全く違ってくる。
そう考えると、文学作品を評価するときに、内容だけを見て「これは面白い」「これはつまらない」と判断するのは、少し早いのかもしれない。
自分が内容にピンとこない作品でも、形式が非常に優れているから傑作だと言われている作品はある。
これまでは、それが少し不思議だった。
「何がそんなにすごいのだろう」と思うことがあった。
しかし、作品の内容と形式を分けて考えてみれば、少し分かるような気がする。
自分にはその作品が扱っている問題がそれほど重要に思えなくても、その問題を文章として成立させる方法が極めて優れているのかもしれない。
逆に、自分が作品の思想に強く惹かれたとしても、そのことだけで作品全体を傑作だと判断してよいわけではない。傑作は、内容の面白さではなく<内容と形式についての批評>がどのくらい優れているかによって決まるのではないかと考える。
「自分にとって面白い作品」と「文学として優れた作品」は、必ずしも同じではない。
そしてついでに、このことを考えると、翻訳文学についても少し違って見えてくる。
ロシア文学を日本語で読む以上、ロシア語そのものの響きや文章のリズム、言葉の細かなニュアンスまでは分からない。
原卓也訳が読みやすく、文章として好きだと思っていても、それはあくまで日本語に翻訳された『カラマーゾフの兄弟』の形式が好きだということであって、ドストエフスキーがロシア語で書いた形式そのものを好きだということとは違う。
これは翻訳文学を読むうえで、かなり重要なことなのではないかと思う。
もちろん、それだから翻訳に価値がないという話ではない。むしろ逆で、翻訳によって別の言語の文学作品に触れられること自体が大きなことだと思う。
ただ、翻訳を読むときには、「内容」と「形式」の両方を読んでいるつもりでも、形式については翻訳者の仕事を通したものしか読めていない。
そう考えると、原卓也訳の『カラマーゾフの兄弟』が好きだという自分の感覚も、少し面白いものに思えてくる。
自分が好きなのはドストエフスキーの文章そのものなのか、それとも原卓也によって日本語になったドストエフスキーなのか。
その違いは、実際にロシア語を読めなければ確かめることができない。
それでも、こういうことを考え始めると、小説の読み方がやはり以前とはかなり違ってくる。
今までは、作品の中に何が書かれているのかを読むことが中心だった。
これからは、それと同時に、なぜそれがそのように書かれているのかということも考えてみたい。
そう考えていくと、文学作品は「何を言っているのか」だけではなく、「どうやってそれを言っているのか」というところにも意味があるのだと思う。
『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」が自分にとって面白かったのは、そこに書かれている思想そのものが面白かったからだ。
しかし、今はそれだけではなく、なぜドストエフスキーはこの思想を、イワンがアリョーシャに語る「物語の中の物語」という形式にしたのか、ということも気になっている。
内容だけを取り出してしまえば、神の存在や人間の苦しみについての哲学的な議論である。
『カラマーゾフの兄弟』においても、「どう書かれているか」により大きな意味があるのかもしれない。私には想像する事しかできないが。
【まとめ】
何が書かれているのか。=内容
そして、どう書かれているのか。=形式
これまで私は前者ばかりを見ていたように思う。
最近は、後者にも目を向けてみたいと思っている。
そうすると、今まで内容があまり面白いと思えなかった作品についても、もう一度読み直してみたくなる。
「何を言っているのか」には興味を持てなかったとしても、「どうしてこんな書き方をしているのか」というところからなら、何か見えてくるかもしれない。
小説を読むということは、書かれていることを理解するだけではない。
書かれていることが、どのような形でそこに存在しているのかを見ることでもある。
最近はそんなふうに考えている。