チェンソーマンのレぜ篇が映画化されてから半年近く経つが、ずっと頭の中で引っかかっているシーンがある。どこの考察サイトを調べても同じ考察が見当たらなかったので、記事にしてみようと思う。私は漫画を読んでいないので、間違えているかもしれないが、大目に見てもらえると嬉しい。

 

結論から言うと、私の仮説は、レゼとデンジが性的に交わった、というもの。問題のシーンは、レゼとデンジが戦って、海に飛び込むところから、浜辺に打ち上げられるまでの部分。

 

デンジは、チェーンソーで敵を斬りつけるだけでなく、チェーンの部分だけを鞭のように使う事を覚える。しかし強敵レゼを前に、デンジは劣勢である。デンジは機転を利かせ、チェーンで二人の身体を縛り付け、海に飛び込むことでレゼの爆発する能力を無効化する。映画ではそこで音楽が流れ、二人が密着したまま海へと沈む。気が付くと二人はどこかの浜辺に倒れていて、少しの会話を交わした後、レゼはデンジのもとを離れ、去って行く。

プロットだけを追うなら、デンジとレゼは戦いの中で海に飛び込んだだけのように見える。実際、二人は拘束された状態で海に飛び込んでいるので、現実に性行為を行ったわけではない。しかし、細部に注目すると、この場面がとても性的な含意のある描写だという証拠が見つかる。最も大きな証拠は、レゼの服だ。レゼの白いシャツには、赤い血がシミになっている。白色がバージン(処女)、赤色が性行為による出血を表しているとすれば、レゼが処女を失い、少女が大人に一歩近づいたという象徴と捉えられる。考えすぎだろうか?だが、よく考えてみると、海に入っていたのに服に血が付いたままなんてことは有り得るだろうか。「実際」としてのシャツと血、「象徴」としての白地と赤色、その両方から読み解く必要があるように思った。

さらなる証拠として、これは後付けではあるが、「海」というものも象徴的である。海と言えば、かつて生命がうまれた場所である。あるいは、詩人の三好達治(1900~1964)の詩集『測量船』(1930)に登場する有名な文句で、「海」という漢字の中に「母」がある(厳密にいえば違うわけだが)というレトリックが連想される。海という舞台設定にも、性的な含みを感じられる。

 

このように考えると、レゼ篇はバトルがメインの軸となっている一方で、一人の無垢な少女が大人になっていく描写が所々に散りばめられていることが分かる。デンジの方に注目してみても、また新たな気付きがあるかもしれない。

 

アニメをここまで深掘りして考えるというのは、私も普段やらないことではあるが、ひとつの作品を別の視点から見ると思わぬ気付きがあったり、新しい魅力を発見できたりする。これが鑑賞の醍醐味でもあるかもしれない。