【紹介】

シェイクスピア『オセロー』の要約を書いているので、ぜひこちらもお読みください。

 

【解説】

『オセロー』は愛と嫉妬、そして裏切りの物語と言われることが多いかと思います。日本のボードゲーム「オセロ」の語源となったように、作中ではイアゴーを中心として、物語の展開や敵味方の関係がころころと入れ替わります。

 

シェイクスピア作品が「よい文学」である最も大きな要因は、彼の作品が持つ多義性にあると思います。これは戯曲・演劇という表現方法の良い点でもありますが、曖昧性を残したまま物語を進めていけることが強烈な魅力となっているのです。もしも『オセロー』が台詞と動きのみで進む戯曲形式ではなく、内面描写や具体的な日時・場所・表情などを記さなくてはならない小説の形式であったとしたら、物語の魅力を出し切る事は出来なかったでしょう。400年前のシェイクスピア作品が現代でも読まれるのは、彼の作品が無限の解釈・無限のテーマを許容する曖昧性、つまりは「多義性」を持っているからだと考えています。表現の形式に関することは、思う所があるので、また今度ひとつの記事にしようかと思います。

 

また、要約には入りきらなかったのですが、愛に関する名言や言葉遊びもシェイクスピアの魅力の一つだと思っています。これは『リア王』に色濃く出ているので、またその時に詳しく書こうと思います。『オセロー』の名言などは、ぜひご自身で作品をお読みになることをお勧めします。私のオススメはちくま文庫から出ている松岡和子さんの翻訳です。洗練された翻訳で読みやすく、分かりやすく、かといって味を損なわず。かなり工夫されており、訳注まで面白いです。

 

【感想】

さて、ここからは『オセロー』の感想を書いていきます。

第四幕まで、私はとても楽しく読んでいました。イアゴーの巧妙な作戦どおりに物語が進み、旗手という身分の低い彼が徐々にのし上がっていく様子は、とても心を惹かれるものがありませんか。もちろんやり方は嘘と罠で人を陥れるという、大変下劣なものですが、悪だくみをフィクションとして見ている時は、とても楽しいですよね。『オセロー』を演劇、つまり舞台で観たら、イアゴーの二枚舌・三枚舌がひとつの劇場内で行われるので、とても見応えがありそうだと感じました。

ところが第五幕、人々がたくさん死んでいく流れになると、少し心が痛みました。今までにない感覚です。特にデズデモーナが殺される場面は辛かったです。オセローに殺意さえ湧くほどでした(笑)。当然火種となったイアゴーに対する嫌悪も。心も身体も美しい若きデズデモーナが、オセローという将軍、軍人、おじさんにベッドで首を絞められて死ぬのはあまりに残酷でした。そこになって「あ、そういえばオセローって、悲劇だったな」と肌で感じました。オセローでは主要人物はほとんど全員死にましたね。これぞ悲劇。

 

私がとても共感した部分があります。それは第三幕第三場の、デズデモーナの浮気をほのめかされたオセローがイアゴーに対して更なる「証拠」を追求する直前の台詞。※著作権に配慮して、英語の原文と、私の日本語訳を表示します。

 

Avaunt! be gone! thou hast set me on the rack:

I swear 'tis better to be much abused
Than but to know't a little.

「失せろ!どっか行け!お前は俺を拷問台にかけたな。

 誓って、徹底的に騙された方がましだ

 ほんの少しを知らされるよりは。」(拙訳)

 

本当にその通りだなと思いました。イアゴーが何も言っていなければ、浮気の事実があろうとなかろうと、オセローはそれに気づかず幸せであったわけですから。疑いが不幸を招いてしまうという教訓になっていますよね。どっちつかずの、確信できない不信感が、人を苦しめるという考えに共感しました。

嘘もつきとおせば真実、と言ったりします。浮気も証拠を完全に残さず、疑われることもないように完璧に平静であったとしたら、浮気されている方にとってそれは不幸な事なんですかね、どうなんでしょうね。私にはまだ答えの出せてない問題です。それにしても、どうして人は真実にこだわってしまうんですかね。そんな物あるかどうかも分からないのに。あったとして、知る事が出来ないなら考える意味もない気がします。こういう事を考えるきっかけとなったのは、オスカー・ワイルド(1854-1900)の『ドリアン・グレイの肖像』です。とても面白かったのですが、これはまた長くなりそうなので別の記事で。