京都で2カ月に一度、谷光太郎先生(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%A4%AA%E9%83%8E )の勉強会があり出席しています。先生は山口大経済学部教授をされていましたが、丸亀高校の5年先輩で三菱電機の先輩にもなり、懇意にさせて頂いています。今月は昭和天皇についての講話があるとの事で、そのレジメを事前に頂きました。
昭和天皇は素晴らしい天皇だと尊敬していました。ある雑誌に次の様なエピソードが載っていました。台風が東京に来るとの予報が出され、心配されていた陛下に侍従が「陛下、ご安心下さい。台風は東京をそれるようです」と報告をしたら陛下は笑顔になられ、「それは良かった。それで台風は何処へ行くのか?」と問われたので、侍従が「青森に上陸の予報です」と答えると、陛下は笑顔が消えて厳しい表情になられた。この記事を読んだ時、陛下の御心の主語は常に日本国民の幸せなのだと理解出来ました。レジメの中にはマッカーサー元帥との面談についての興味深い話があったので、色々調べたら次の様な多くの事が分かり、改めて陛下の素晴らしさに敬服しました。
終戦直後の昭和20年9月27日に昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーを訪問した時、マッカーサーは「ついに天皇を捕らえるときが来た!」と考えました。
この時、陛下をどのようにするのかが米国サイドで議論されており、次の三案の下で陛下を亡きものにすることが決められていました。①東京裁判に引き出して絞首刑にする。②日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにする。③中国に亡命させて秘密裏に殺害する。こうした状況下での陛下の訪問だったので、マッカーサーは陛下が命乞いに来るのだと思い、陛下が来られた時、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとされたうえで、次の様に仰せられました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。」 「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
マッカーサーは驚きました。世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置いて椅子から立ち上がりました。そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。そして部下に、「陛下にコーヒーをさしあげるように」と命じました。マッカーサーは、まるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に直立不動で立ちました。その後マッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
この年の11月、米国政府は、マッカーサーに、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請しました。それに対して、マッカーサーは、「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで裁判にかけられれば、日本の統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」とし、「天皇の戦争責任を追及できる証拠はない」と、昭和天皇を擁護し、天皇制の存続を提唱しました。
陛下の面談相手がもし独裁国家のスターリンだったら陛下を見下したままの面談で終わった可能性大と思います。人種のルツボと言われる多民族民主主義国である米国の国是はフェアー精神です。陛下の面談相手が道理をよくわきまえたフェアー精神のマッカーサーであった事に感謝をせねばなりません。
昭和天皇は素晴らしい天皇だと尊敬していました。ある雑誌に次の様なエピソードが載っていました。台風が東京に来るとの予報が出され、心配されていた陛下に侍従が「陛下、ご安心下さい。台風は東京をそれるようです」と報告をしたら陛下は笑顔になられ、「それは良かった。それで台風は何処へ行くのか?」と問われたので、侍従が「青森に上陸の予報です」と答えると、陛下は笑顔が消えて厳しい表情になられた。この記事を読んだ時、陛下の御心の主語は常に日本国民の幸せなのだと理解出来ました。レジメの中にはマッカーサー元帥との面談についての興味深い話があったので、色々調べたら次の様な多くの事が分かり、改めて陛下の素晴らしさに敬服しました。
終戦直後の昭和20年9月27日に昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーを訪問した時、マッカーサーは「ついに天皇を捕らえるときが来た!」と考えました。
この時、陛下をどのようにするのかが米国サイドで議論されており、次の三案の下で陛下を亡きものにすることが決められていました。①東京裁判に引き出して絞首刑にする。②日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにする。③中国に亡命させて秘密裏に殺害する。こうした状況下での陛下の訪問だったので、マッカーサーは陛下が命乞いに来るのだと思い、陛下が来られた時、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとされたうえで、次の様に仰せられました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。」 「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
マッカーサーは驚きました。世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。マッカーサーは咥えていたマドロスパイプを机に置いて椅子から立ち上がりました。そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。そして部下に、「陛下にコーヒーをさしあげるように」と命じました。マッカーサーは、まるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に直立不動で立ちました。その後マッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
この年の11月、米国政府は、マッカーサーに、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請しました。それに対して、マッカーサーは、「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで裁判にかけられれば、日本の統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」とし、「天皇の戦争責任を追及できる証拠はない」と、昭和天皇を擁護し、天皇制の存続を提唱しました。
陛下の面談相手がもし独裁国家のスターリンだったら陛下を見下したままの面談で終わった可能性大と思います。人種のルツボと言われる多民族民主主義国である米国の国是はフェアー精神です。陛下の面談相手が道理をよくわきまえたフェアー精神のマッカーサーであった事に感謝をせねばなりません。