そもそも、なぜ人は美しくありたいと思うのか?これを、あえて女性に限って言えば、男性に好感を持たれるからでしょう。
しかし、例えば『白雪姫』に登場する魔女のお后様をみておりますと、そんな本来の目的から逸脱した心理が見えてきます。彼女の場合は、あくまで自分が世界一美しい女性であることが求められております。
つまり、世界一美しいことで、より望ましいパートナーをゲットできる(※ 彼女には既に王のパートナーがいるはずです)ことではなく、あくまで「世界一美しい女性」というステイタス(地位)が求められているのであります。して、そのことで女性としての自尊心が高まるのでしょう。
このように本来の目的を逸脱し、異なったものを求める倒錯した心理を広義のフェティシズムといっていいでしょう。
以下、アメリカの心理学者であるナンシー・エトコフの『なぜ美人ばかりが得をするのか』にあった「人は心の中に美の理想を持つ」という章に沿って、「美しくなりたい」という我々の願望(欲求)を考えてみたいと思います。
まず、人は誰しも、心のどこかに理想的な人間の美の形のイメージを持つとナンシー女史は書いております。
我々は、他者の外見を評価するにあっては、その基準に従っているのだとか。して、その心理は鏡に映った自身の外見に対しても同じでしょう。
もっと鼻が高かったらよかったのに
二重瞼だったら、可愛いと思われたはずなのに
しかし、そもそも、完璧なる美の条件を満たした方なんてのがいるものなのか?
16世紀のドイツで活躍した画家(版画家)のデューラーは「この地上に、欠けることのない美しさをもった人間はいない」なんて言っているそうです。
とは言いましても、言うところの美人は数多くおります。しかし、実はその当人たちも自覚しているとされますが、例えばトップモデルとされる方々であっても、何かしらの欠陥を抱えているのだとか。
「手首の左右の太さが違う」、「口が小さすぎる」
んな些細な事、欠陥と言えるのか?
自慢じゃないが、あっしなんぞは・・・
なんて言いますと、自分がもっと惨めになりそうなので止めますが、人間というものは誰しも完璧なる美を求めているからそうなるのでしょう。
この点、釈迦が「求不得苦(ぐふとくく) ー 求めても得られないという苦しみ」に捉われていると、人間は幸せになれない、なんて説いてますねえ。
美容整形外科にやってくる女性の中には、今のままで十分に美しいと思われる方も少なくないとされますが、彼女達もまたトップモデルと同じことを言うそうです。
しかしながら、それこそ古代ギリシアの哲学者プラトンが言うようなイデア(完璧にして最高のもの)的な美なんてものが、現実に在りうるのか?
同じく古代ギリシアの画家ゼウクシスという方は、絶世の美女と言われたトロイアのヘレネを描くにあたっt、5人の美女をモデルにし、その良い所を集めて完成させたのだとか。
今なら、AI技術を用いて簡単に(?)できるかもしれない。
AI技術によって作成された美女
イギリスのケネス・クラークという美術評論家が、その著である『ザ・ヌード』という本の中で、
芸術的な意味でのヌードは、単なる裸体(※ これをネイキドといいます)とは異なる
なんて有名な言葉を記しておりまして、例えば西洋絵画などにおけるヌード画は、モデルをそのままに描いたものではなく、画家の頭の中にある、それこそ理想的な肢体イメージに合わせて(修正されて)描かれたのだ、ということになるでしょう。
さてさて、今でこそAI画像処理技術で、いくらでも修正可能なのでしょうが、かつては(※ 今も?)、特定の身体部位だけのモデルがいました。
例えば、化粧品のCMなどで見る手だけの写真とか、例えば富裕層限定のプラチナ・クレジットカードをもっている手の写真とかがありますが、それこそ美しい手を持った、その部位だけのモデルなのであります。
美しい手の状態を維持するために、普段から手袋をしているというモデルもいました
あっしも、自分の身体部位で自慢できるものはないかと探してみましたが・・・。
せいぜい、耳ぐらいですねえ。(※ 勝手な自己判断ですが)
補聴器なんかのモデルに使ってもらえませんかねえ。
さてさて、イギリスのエリザベス1世についての興味深い話が載っておりました。
彼女の肖像画は何枚も描かれたとされますが、実物というよりは、かなり修正というか、脚色されたというか、手が加えられていたようでして、晩年なるほど抽象化(!?)の度合が増していったとされます。
エリザベス 1世の肖像画
以前、あっしは、かつて東京タワーなどで似顔絵を描いていたという方の話を聞く機会がありましたが、この方が言うには「実物よりも、少し美しく描いてあげるのがコツ」なのだとか。
んで、客が決まって言うには、
よく描けてる!
まあ、そりゃ、そーでしょうねえ。



