日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

預言者であって、予言者ではありません。

 

 

1999年、空から恐怖の大魔王がやって来る」なんて、わけのわかんねーことを言っていたノストラダムスは予言者でして、預言者ではありません。

 

 

 

ノストラダムス

 

 

 

単に未来に起こるであろうことを、確信を持って予測する方、霊感なるものにより啓示された神意(託宣)を人々に伝える、あるいは解釈し、神と人とを仲介するするものとされます。

 

言うところのシャーマン(霊能者)というものでしょう。神の代弁者ともされます。歴史的には、世界中にいましたし、祭司であったという場合もあります。

 

 

日本で言えば卑弥呼などもそうなりますかねえ。天理教の教祖であった中山ミキもまた、神懸って、彼女の言う神の言葉を伝えたとされます。

 

 

ここでのポイントは、いわゆる巫覡(ふげき・男)、巫女(女)とは異なると考えられます。彼らの場合は、それこそ神懸る、つまり神がそのものの肉体、口を借りて神意を伝えるわけで、彼らは霊媒でしかないでしょう。

 

 

預言者の場合、といってもこれはユダヤ教における独特の存在ですが、彼らの場合は神がそれこそ彼らに憑依し、その言葉を語るのではなく、神が彼らと会話し、その神意を伝えるとされておりますから、預言者自身の主体性が保たれていると考えられます。

 

伝説上の存在とはいえ、アブラハム、ノア、モーセ、ヨブ、ヨナといった方々も預言者とされますが、彼らの物語にあっては、神との対話がなされております。

 

 

 

 

燃える柴の向こうからモーセに語り掛けてくる神

 

 

さて、巫覡・巫女の場合ですが、そういう方は、その才能(特殊能力)があると考えられ選び出されるわけでして、その口から語られる神の言葉とされるものはそのまま受けいれなくてはなりません。

 

まあ、場合によってはごく普通の方が神懸って神の言葉を語るなんてこともあったようですが、その中にはかなり怪しげなものもあったようです。

 

例えば、明治の頃、農家の嫁さんが神懸り、「我こそは稲荷大明神なるぞ」なんて言い出したという話があります。笑えるのは、「稲荷ずしが食いたい」なんて言ったとかで、この話を紹介しております精神科医の森田正馬は、精神疾患(※ ヒステリー)だと診断しております。

 

 

実際、精神病院には自称・神、自称・天皇という方もいるのだとか。

 

 

仮に、あっしなんかも、「我こそは天之御中主神(※ 『古事記』に登場する、始原の神)なるぞ」なんて言ったところで、

 

 

 

また、ねずみ男が、わけのわからんこと言い始めたぞ

変なもんでも食ったんじゃないのか

キツネかタヌキの悪霊が取り憑いたか

 

 

なーんて、一笑に付され、相手にもされないでしょう。

 

なお、「稲荷ずしが食いたい」なんて言っていた、自称・稲荷大明神こそは、「狐憑き」だとされておりました。

 

 

 

狐憑き

 

 

 

 

興味深いのは、幸福の科学の総裁であった大川隆法という方の霊言なるものですねえ。

 

 

 

 

 

もちろん神の言葉もありましたが、ごく普通の人間(※ 死者、生きている者を問わず)、はては宇宙人の言葉(これを霊言というのだとか)のことを、この大川の身体、というか口を借りて告げるというもので、この場合は巫覡というものになるのでしょう。

 

特徴的なのは、上にも書きましたようにオールマィティーで、霊があるとされるものなら、自らの意のままに何でも憑依させることができる、ということでしょう。

 

 

 

さて、ユダヤの預言者であります。

 

最初の預言者とされるのは、イスラエル王国を建国したサウル王に仕えたサムエルだとされます。

 

 

いわゆる祭司であったようですが、「神に選ばれし者」という自覚のもと、自身の主体性は前面にだすことなく、あくまで神の言葉を伝えるカリスマ的な宗教者であったとされます。

 

 

後の預言者もそうですが、権力の側にいようが、いまいが、あくまで民衆の立場に立った上での神の言葉を伝えたとされ、時には権力者に対して批判的なことも伝えたとされます。

 

 

普通なら、権力者の意に沿うような、それこそ都合のいいようなことを言いそうなものですが、そうではない。

 

 

 

まあ、だからこそ預言者と称えられたのでしょう。

 

まして、その預言ゆえに、特権を得たというようなこともなく、強大な権力をもつようになった、ということでもないようです。

 

 

しかしながら、「神の言葉」といっても、その言葉を預言者がどう解釈するかでしょう。つまり、預言者が神の言葉を正しく理解しなかった、なんてことだってあるのではないのか?

 

いくら神に選ばれし預言者といったところで、しょせんは人間ですからねえ。

 

 

あえて言わせてもらえば、預言者は神の名を借りて自分自身の意見、考えを述べたように思います。むろん、当人がそれを意識して行ったというわけではなく、自身も「神が自分に語り掛けてきた」と思っていたのだと考えられます。

 

 

 

 

預言者エリヤ

 

 

 

ただ、その言葉がまっとうなものであれば、これを聞く人々もまた、その言葉は神の言葉だと思ったのかもしれない。

 

預言者達の多くは、イスラエルが苦難の時代にあった時に積極的に発言しており、その預言は人々に反省を促すと同時に、励ましや希望を与えていたように思われます。

 

 

それが、ただの人間の言葉であるか、神の言葉であるか。

 

神の言葉であるなら、これはもう、素直に聞き入れ、これに従うべきでしょう。

 

 

イスラエルの民も、あえて預言者の言葉を神の言葉だと信じたのでしょう。

 

むろん、中には変なことを、的外れなことを言う預言者(※偽預言者)もいたようですが。

 

 

預言者というのは、言うなればオピニオン・リーダーでしょう。それも、神の言葉を語るとされますから、権威があります。

 

 

さてさて、ユダヤの地にあっては数多くの預言者が出現しております。その中には、後のユダヤ社会を方向付けたような方も少なくありません。

 

中でもイザヤなどの言葉は有名です。

 

 

見よ、おとめが身籠って男の子を産む

その子はインマヌエルととなえられる

 

 

(イザヤ書7章14節)

 

インマヌエル」というのは「神は我々とともにおられる」という意味ですが、これが「神の子」となったのか。

 

 

 

笑えるのは、この「おとめ(乙女)」というヘブライ語で「若い女性」を表すこの言葉を、ギリシア語に翻訳した時「処女」となってしまった、ということでしょう。

 

 

言うまでもなく、ここからマリアの処女懐胎神話が誕生します。

 

 

 

アンジェリコ 『受胎告知』

 

 

 

若い女性が身籠って男の子を産むというなら、どーってことのない話で、その子がメシアになるだろうと、言うのであります。

 

イザヤは、やがて、いつの日か、そんなイスラエルの救世主ともなるであろうメシアが生まれるだろう、と言っているのであります。して、みんな希望を持って、その日を待ちましょう、ということだったのでしょう。

 

 

して、それは洗礼者ヨハネとも言われましたし、その後にはイエスがそうだということにされます。むろん、そう思う人々がいたというだけで、全てのユダヤ人がそう思っていたわけではない。

 

 

そのメシアなる方はダビデ王の子孫にしてベツレヘムの地に生まれる、なんて預言があったようでして、これによってマタイルカは、イエスの誕生をそのように設定しておりますが、これには相当の無理があります。(※ イエスの系図からして嘘くさいです)

 

 

また、イエスが生まれ故郷(とされる)ナザレにあっては、人々がボロクソ言っております。あんな、マリアの息子、ただの大工の息子が、メシアなんかであるはずがない。そもそも、彼はナザレの生まれではないか、と読むことができます。

 

 

 

 

 

 

寝言は寝ていいやがれ!

 

 

なんてことだったのか、

 

それこそ、人々はイエスを偽預言者とみなしていたのでしょう。

 

 

まあ、べつにイエス自身が、自らをメシアだとは思っておらず、ただ、預言者というか、それこそオピニオン・リーダー的な発言をしていたのではないかと思います。

 

選挙の出る候補者が、意見を述べるようなものですねえ。

 

 

みなさん、私に一票を!

 

 

なーんてねえ。