日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

日々の妄言、ざれ言、たわ言、世迷言

思いつくことを適当に書き込んで行きます。まことしやかに書かれておりますが、何の根拠もありません。適当に読み流してください。

裏の畑でポチがなく

 

正直爺さん掘ったれば、大判小判がザックザックザックザク ♪

 

 

言わずと知れた『花咲か爺さん』の昔話であります

 

 

 

 

 

ここには、正直で心優しい爺さん夫婦と、意地悪で欲深な爺さん夫婦も登場します。

 

 

前者のすることがことごとくうまくゆくのに対し、真似をした後者の方と言えばことごとくロクでもないことばかりなのであります。

 

勧善懲悪という、一般民衆の倫理道徳観を示す話であります。

 

して、これはそういった一般民衆の「そうであったらいい」、「そうあって欲しい」という期待と願望が作り出した物語でしょう。

 

 

これとよく似た、もっとリアリティーのある奇瑞譚とも言うべきものが柳田国男の『遠野物語』の中にあります。

 

 

猫の手も借りたい用に忙しい田植えの時、いずこともなく見知らぬ男の子がやって来て手伝わせてくれ、とやってきます。

昼飯時には見当たらず、再び姿を現し夕方まで手伝ってくれます。

 

大変感謝した家人が夕飯こそは食べさせたいと思うに、その時にはもう見当たらない。

 

 

帰宅すると縁側に小さな泥の足跡があり、それがオクナイ様(※ 屋敷神か?)を祀っている部屋の神像のところまで続き、その像の腰から下が泥まみれであったのだとか。

 

 

 

思うに、これは何らかの実際にあったことから作り出された勘違い、思い違いの産物ではないかというのが妥当なところでしょう。

 

しかし、ここにも「そうであったらよい」、「そうあって欲しい」という人々の期待や願望が見て取れます。

 

そういった思いが、こういった話を作り出したのかもしれません。

 

 

 

イソップ童話の中には『金の斧』と題した同じような話があります。

 

 

なお、日本の民話にもこれとそっくりの話があり、元々、同じようなことが考えられていたのか、それともイソップ童話が伝播したのかはよくわからないようです。

 

なお、今回はその日本版ともいうべき話にします。

 

 

して、こちらは、正直な木こりが誤って斧を湖に落としてしまいます。

 

すると、その湖に住む女神さまが現れ、手にした金の斧を差し出して「お前の落としたのはこの斧か?」と尋ねます。

 

正直な木こりですから「いいえ」と答えると、女神は再び、今度は銀の斧を差し出して「これか?」と尋ねます。

 

 

 

 

 

 

正直者の木こりは再度否定し、「自分の斧はただの鉄の斧だ」と答えると、女神は子の木こりの正直さに感心し、さらにそれを誉め、なくした鉄の斧だけではなく、金と銀の斧も、この木こりに与えるのであります。

 

 

 

この話を聞いた、これまた意地悪で欲深な木こりが、これを真似すべく、わざと鉄の斧を湖に投げ入れます。

 

んで、実際の話は欲に目がくらんだこの男の思う通りにはならなかった、というのがオチでした。

 

 

 

この話にあっては、金の斧を見て「それは自分のものだ」といった意地悪で欲深な男の答えを聞いた女神は呆れ果てて二度と湖から出てくることもなく、彼が自身の鉄の斧を失ってしまうのでありますが、笑ったのはこの変形バージョンです。

 

 

欲にかられたこの木こりは、欲をかいてとてつもなく大きな鉄の斧を用意して湖に投げ込むのでありますが、なんとその斧が女神を直撃したことで彼女は気絶してしまい、湖から金の斧を持って出てくることすらなかった、というのであります。

 

 

欲をかくとロクなことにならない、という教訓をここから引き出すこともできますねえ。