「江戸百」とは広重の「名所江戸百景」のことである。
江戸の名所を独自の構図でまとめたイラスト集といったところか。
江戸中を襲った「安政の江戸地震」(1855年)の翌年から約三年にわたって出版された「江戸百」。
寺や家、塔などの多くが、この地震の被害にあった。
江戸ッ子が愛した在りし日の名所を、次々と描きまくったヒット作である。
(現大河ドラマの「篤姫」が家定のもとに嫁いだのも、1856年)
「江戸百」の中には、仙台藩屋敷の近くがいくつか描かれている。
「屋敷が」ではなく「近くが」なのが惜しい。
が、当時は大名屋敷や幕府施設を直接題材にした出版物は許されなかったようだ。
まずは
三番目の上屋敷
「浜屋敷」
この近くというと、「江戸百」の最初のシリーズ、五枚のうちの一枚「芝うらの風景」 。
当時の明石町(現:明石ポンプ場)あたりから、「浜御殿(現:浜離宮)」~「お台場」を見ている。
(1856年2月作)
絵の遠くに見える浮島が、品川沖の七つあった砲台「お台場」。
1853年のペリー来航により作られたもの。
江戸っ子も、海に作られた妙なものに、さぞツッコんだであろう。
残念ながら、「浜屋敷」はこの絵のずっと右奥。
「浜御殿」と「浜屋敷」の間の水路は現在、汐留川と呼ばれている。
川幅は、戦後に半分が埋め立てられ、高速道路が覆っている。
(写真は、汐先橋交差点から見た、汐留川を覆う高速道路)
左が現「浜離宮」、右が「汐留ビル」つまり「浜屋敷」跡
(「放送大学付属図書館」→ギャラリー「日本残像」→「東京」→「浜離宮」)
この写真の広い水路の右は、「浜屋敷」のあった場所。
明治に入るとすぐに、屋敷は取り壊されたので、写真に残っているものは殆ど無い。
もし、この右に見えるものが屋敷の塀だとすると、非常に珍しいものと言える。
また現在の写真の位置から、高速道路に沿って進むと「中の御門橋」がある。
(明治頃の写真にも見える)
昭和初期の地図に、一つだけ、この橋が「会仙橋」となっているものがあった。
「仙に会う橋」とは、仙台屋敷に関係があったのだろうか?
この橋の名前に関しては、検索しても殆どヒットしない。
今は無い「几号水準点」の記録にあるだけなので、もう少し資料を集める必要がありそうだ。
(0708追記)
いや、こうではないか?
「橋」を渡ると「松平肥後守」=「会津藩」屋敷、すぐ右となりが「仙台藩」屋敷。
そこで「会・仙・橋」。