あの時指先に感じた温度を思い出すと
なんだかとてもくすぐったくて歯痒くて、
きっとこの感覚を忘れることは生涯ないだろう。伊達です。
わたしはいつも衝動に負ける。
それは欲望とは違う気がする。
奥底から時々ふっと沸いては
一瞬のうちにそれまでのあらゆる出来事を忘れさせ、
ただわたしを強く強く突き動かしてしまう。
そんな衝動。
その衝動の結果は、
大きな後悔であったりわずかな成功であったり
手元に何も残らない時もあれば、
後ろを振り返れば
ありえない数の人が倒れている時もある。
「よせばいいのに。」
と、思うのはいつも事後のことで
「気をつけよう。」
と、反省したフリでまた繰り返すし、
「あぁ、本当に駄目な子。」
と、罵ったって翌日はご飯が美味いわけです。
そんな衝動の話。
わたしは、時々
人のすべてをバラバラに解体して
この手で触れてみたくなる。
人を知る方法はたくさんあって、
会って顔を見て表情から知ることもできるし、
電話をして話を聞くこともできるし、
話しづらいことをメールをすることもできるし、
こうやって書いたブログを読むことだって出来る。
もちろん、実際に触れてみることも。
そこから、その人がどんな人生を歩み、
どんな人と出会い、どんなことを経験し、
何に影響を受け、何を好きと思い、何を嫌い、
何を考え、何を求め、何に信念を持ち、
その人生をどう生きているかを知りたくなるのだ。
興味本位と、安心感を得たいが為の
単なる自己満足として。
つい先日。
いつもの病気が発症し、
結果人の「カレンダー」に触れる機会があった。
正直、指先が震えた。
その行動が何故か、
内臓を素手で撫でまわしているような気がして。
触れる私は決して痛くもなければ痒くもないが、
触れられたその人はどうなのだろう?
と、考えて
やっと初めて、気づく。
わたしは何故こうまでして…
というのは、
そうすることでその人が不快に思うかもしれないのに
何故内側に魅力を感じ、その衝動を抑えられないのか。
それはきっと、好きだから。
確かにそうだ。
わたしがいつも衝動に負ける時は
「好き」の気持ちが勝つ時だ。
恋愛の「好き」。
仲間が「好き」。
芝居が「好き」。
友達が「好き」。
家族が「好き」。
そしてその「好き」は時々、
わたしを駄目にする。
プラスである「好き」の気持ちが、
わたし自身をマイナスに導く。
これ如何に。
答えは簡単。
自分の「好き」を突き通すということは
様々な犠牲を伴うということだ。
仲間が「好き」だから、
自分の時間を削る。
芝居が「好き」だから、
故郷を離れる。
友達が「好き」だから、
仕事を休む。
家族が「好き」だから、
夢を捨てる。
恋人が「好き」だから、
すべてを諦める。
すると、ここで疑問がわいてくる。
「好き」はいいことなのか?
犠牲を伴ってまで、必要なものなのか?
人は「好き」に対して純粋だ。
嘘をつくことはできても、
ごまかすことは出来ても
消し去ることは容易くない。
ううん。
きっと消し去ることなんて出来ないよ。
何故なら人は
「好き」の為に動き、働き、生きているから。
大切なのは、多分
何かを犠牲にしないことじゃなくて
犠牲にしたことを忘れないこと。
そして、その犠牲と「好き」を
天秤にかけてちゃんと向き合って考えること。
そうやって出した結果なら、
それはその時の正解だから胸を張ればいいと思う。
そういうものを乗り越えるから
「好き」に触れた時に
人はあんなに素敵に笑えるんだろうなぁ。
そして。
その為なら
もし自分が犠牲になったって
わたしは大丈夫なんだって分かった。
昔は許せなかったけど、
今ならもうきっと大丈夫。
もちろん、
誠実さに基づいた結果ならば、
と言う条件付ですけど!
そんな風なことを
日めくりカレンダーを戻しながら
思ったのでした。
この日記をもちまして
にゃんこカレンダーへの
感想文と代えさせていただきます。まる。
写真は、
いいのが見つからなかったので
最近見つかった子供の頃の自分。
杏実ちゃんよ。
世の中ってのは君が想像するよりも
随分面白く、随分素敵にまわっているようだぜ?
