PAPEPOのブログ

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2020年東京でオリンピックが開催されることが決まった。
これから開催までの7年間、日本の成長が楽しみになってきた。

さて、東京オリンピック開催に、賛成する人もいれば、反対する人もいる。

賛成の方々の気持ちは、ここで述べるまでもないだろう。

一方、反対される方々の気持ちも十分理解できる。

しかし、反対の理由を聞いてみると、

そのほとんどが「福島原発問題」や「震災復興」と絡められている。

この理由には、首を傾げたくなる。

なぜなら、「福島原発問題」や「震災復興」は、福島や東日本で起きたものでななく、
日本で起きたものだと、私は考えているからだ。

「日本全体」が、これらの問題解決に注力しなければならず、
つまりこのオリンピックも、「東京」で開催される「日本」のイベントであり、
オリンピックによって日本全体が成長するなか、その成長の中に、
「原発問題」の解決や「復興」があると考える。

福島県や東北地方で被災され、復旧・復興がままならない被災者の思いを考えると、
オリンピック開催はお祭りで、お金の無駄遣いという理屈はわかる。

しかし、県や地方で境界線を引くのではなく、日本で起きた悲劇、
そして日本で行われる世界的イベント、これを「日本」のものとして
調和させ、これからの日本をよりよくしていく必要があるのではないだろうか。

「信じるということ」とは何か。

聖書の中にこのような記述があるらしい。

『希望の本質であり、目に見えないものの証』

では、「希望」とは何だろうか。

『希望とは一般に信じられている事とは反対で、あきらめにも等しいものである。
そして、生きることは、あきらめないことである』
(アルベール・カミュ)

つまり、「希望」とは、実現する意志があってこそ「希望」なのであり、
実現する意思がないものは「あきらめ」なのだという。

そして、「目に見えないもの」とは何だろうか。

それは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮んだことのないもの」と、聖書の中にあるらしい。
これは「将来あるべき姿」と言い換えてもいいのではないだろうか。

信じるということ、それは「将来あるべき姿に対し、実現する意思を持つ」ということなのかもしれない。

目の前の現実に押しつぶれそうになったとき、確かに「希望」を抱くことは難しい。
しかし、本当の現実は、「希望」に満ち溢れている。
なぜなら、目に見えないものが、鼓動を一つ打つたび、目に見えるようになるからだ。
目の前の1秒先も、遠い10年先も、今は見えないが、希望によって、確実に実現を果たしている。

この世でなされたすべてのことは、希望によってなされているのだ。



「信じるということ」とが『希望の本質であり、目に見えないものの証』という意味が理解できる。

9月5日はマザーテレサの命日だ。

マザーテレサの言葉に、


『空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように』

という言葉がある。

数年前にこの言葉に出合い、「値する者」という言葉にとてつもない衝撃を受けた。

「奉仕する」のではなく「奉仕させていただく」という利他的な“思い”がなければ、
このような言葉はでないだろう。

そして、この利他的な思いが、結果として自分自身の幸せとなる。
つまり、「自分以外の人の幸せ」が「自分の幸せ」、“利他”イコール“利己”となるのだ。

目からウロコだった。

世の中には、人の悪口や欠点をさらけ出して、自分を優位に立たせようとしたり、
「人の不幸は蜜の味」と言わんばかり、その蜜が大好きな人たちが少なくない。

その人たちを批判しようとは思わない。

ただ、私自身マザーテレサの言葉から学ばせていただいたことを大切に、
日々反省を繰り返していこうと改めて思う。

今年の9月4日は田中正造氏の没後100年の日だった。

田中正造氏は、日本の公害の原点といわれる足尾鉱山鉱毒事件で、
政治家として被害住民支援に半生を捧げた人物だ。
(高知新聞平成25年9月4日付朝刊)


田中正造氏の日記に、このような言葉が残されているらしい。

『真の文明は山を荒らさず 川を荒らさず 村を破らず 人を殺さざるべし』

日本では、東日本大震災による福島原発問題、
海外ではシリア内紛による化学兵器使用、
エジプトでも再燃する内乱…

文明はモノだけで開かれるものではない。

モノをつくり、またそのモノを利用する私たちの精神そのものが
文明の代名詞といえるのではないだろうか。

私たちの精神をつかさどるもの、それは教育だと思う。

親や身内から学ぶこと、学校でまなぶこと、地域社会から学ぶこと、
仕事を通じて学ぶこと、趣味や余暇を通して学ぶこと等々、
教育の現場は裾野がとてもひろい。

この広義の教育の現場に、様々な対立が生じるがための、
正当性や価値観の押し付けが大きな影響を与えているのではないだろうか。

もっと深いところ、根本的なところから考え直さなければならない。

つまり、「人としてあるべき姿とは」何なのか、「人が生きる目的とは」何なのか、
という部分だろう。


『死ぬまでのあいだに、少しでも美しいこころにしようと努力することが
人生ではないかと思っています』
(稲盛和夫)

『人間が人間として生まれてきた目的は、
人間として持って生まれた資質を高めることである。』
(渡邉美樹)


先人の成功者が口をそろえて同じことを言われる。

人として、この目的をしっかりと踏まえた教育を土台に、文明が築かれればこそ、
田中正造氏の「真の文明」に近づくことができるのだと、確信する。

今年は気象庁もお墨をつけるほどの異常気象 だったそうだ。

しかし、待ってほしい、異常気象とは何なのか。

私はエコロジストではないが、この表現は、
あくまで人間から見た視点にすぎないのではないかと、首を傾げてしまう。

たまたま雨風が強かったり、暑かったところに、人間が住んでいただけではないか。

例えば防災には、「災害は人がいるから災害になる」という原則的な考え方がある。

人のいない砂漠の真ん中や、海洋の真ん中で地震や雨風がいくら起きても、
それは災害にはならない。

災害とは、人間の視点からのみ見た言い方なのだ。

「地球環境を守ろう」だとか、今回の「異常気象」だとか、
そんな偉そうなことを私たち人間は地球に言うべきではない。

言うとすれば、
「地球環境の邪魔をしないよう」、私たち人間は努めなければならない。

異常なのは私たちの感覚。

常に謙虚でありたい。

TBSドラマ『半沢直樹』

ご存知の通り、半沢直樹は自らの信念、いや復讐にも似た思いで、
閉鎖的な企業の圧力や逆境と立ち向かう、秀逸なドラマだ。


半沢直樹の根底にある思いとは何なのだろうか。


「損と得の道があれば、われ損の道を行く」
(ダスキン創業者鈴木清一)


「損な道」とは何か、「正しい道」と言い換えられるのだろうか。

しかし、何が正しくて、何が正しくないのか、
それは自分自身には分からないものである。


それが証拠に、人はみな自分が正しいと思っているから、
争いが絶えないのではないだろうか。

自分にとって分が悪いと分かっていても、
相手に喜んでいただけることだけを考え、行動する。

つまり、「正しいか正しくないか」は、自分で判断しにくいが、
自分の判断で「分が悪いかそうでないか」はと自覚し、判断することができる。


その自分自身の判断で、あえて相手のためだけに行動する。


そして結果として、相手の喜びが自分の喜びとして返ってくる。


「利他の心」や「自己犠牲」というのは、

「損の道」のようで「得の道」だということに気付かされる。


半沢直樹は、「正しい道」ではなく、「損の道」歩んでいるに違いない。

私も半沢直樹を見習い、筋を通す場面に出くわしたときには、
「損の道」を選択できるよう、精進していきたい。

東日本大震災による原発被害、また真実が明らかになっている。
汚染水が漏れていることを、私たちは知らされていなかった。

これが意図されたものなのか、どうなのか分からないが、
私たちには安全な日常を保つため、「知る権利」がある。

一方、「知らないでいる権利」というものもある。
国家機密法などはその部類に入るか。

もとより、「知らないでいる権利」。
この権利が保証すべき最たるものは、「自分の能力に関する真実」である。

知らないほうが、希望と安全をより多く保証される。
他人の能力を語ることができる人がいれば、
自分の言葉に注意を払わなければならない。

ときとして、言葉を発した相手にとって、致命的な暴力になり得るからだ。

人間は他人の未来を奪う権利を誰も持っていない。
私たちは、明日わが身に何が起きるのかを知らないで生きている。
知らないがゆえに、明日は生きるに値するのだ。
もし、未来に関する全てが分かってしまったら、
かりにそれが人も羨む輝かしい未来だったとしても、
生きるに値しない未来だろう。


誰の人生にとっても、一寸先は闇であり、また光でもある。

他人、あるいは誰が作ったかわからない“ものさし”で、
未来を決めつけるのは、「知らないでいる権利」を侵すことであり、
明日を生きる可能性を否定することになる。

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、
まさにこのことを示しているのだろう。
心に刻んで、行動していこうと思う。

エジプトやシリア情勢が混沌としている。
世界にはたくさんの宗教観があり、政治観などががあるなか、
見事に調和の図れた民族もいれば、紛争ばかりしている民族もいる。

ある民族の一人が、人知れず黙々と善行を積んでいる人があると、
それを知った人は襟を正される。自分もしっかりせねばと、自分で自分を戒める。
やがてその善行は、口から口へ、人から人へと伝わっていく。

結果として、人間としてしてはならないことはしないという、
筋の通った民族が出来上がっていく。


『「迂遠」なようではあるけれども、一からはじめるしかない。
遠回りのようであるけれども、一歩一歩歩むしかないのだ。
だから、倦(う)まず、弛(たゆ)まず、続けていこう』
(安岡正篤)


安岡正篤氏が最も覚悟していた「迂遠」。

安岡氏の信条である


「一澄照隅、万澄照国」

とはそういう意味が込められている。

私たちの周りには、「どうせ私なんて」といった言葉が飛び交っている。
しかし、それは闘いに負けたことを意味している。
敵はもちろん、自分自身だ。
「心中の賊は山中の賊より難し」(王陽明)という言葉もある。

「一隅を照らそうと決意した者がまずやらなければならないことは、
この内なる無力感と闘うことだ。これと闘い、克服して、
自分の持ち場や責任分担において、一隅を照らすようになったとき、
引き上げられて、より広い範囲で、より多くの人と共に仕事をするようになる。

しかし、すべての始まりは、自分の足下の責任分担から始まるのだ。」
(安岡正篤)


何も行動せず、口だけで批判・評論する場面は、たくさんある。
そんなことに意味はないとまでは言えないが、
「だったらどうするのか」という考えが大切なのではないだろうか。

「だったらどうする」、この考えに基づいて、次の行動が見えてくるはずだ。
この考えがなければ、単なる愚痴や悪口に終わってしまう。


私たちにできることを、迂遠にひとつひとつ“カタチ”にしていきたいと思う。

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『幸福感というのは、相対的に感じるものだということです。

人生というのは、起きてしまったことに対して、
すべて受け入れるなかで、前向きに生きる。

ないものに対して不満を言うのではなく、
あるものに対して感謝しながら生きる。

それが大事であり、そこから前に進んでいく、
つまり、そこをスタート地点にしなければいけないということなんです。』



東日本大震災によって、私たちはたくさんのことを学ばされた。
私は、この『幸せの価値観』ということについて、とても衝撃を受けた。


震災による被災者の方々、
ある方は「津波で家が流されなくてよかった」という。
ある方は「家は流されたが、家族の命が助かってよかった」という。
ある方は「家族が亡くなったが、遺体が見つかってよかった」という。

つまり、「幸せの価値観」というのは相対的なものであり、
私がイメージしていた「幸せ」とは全く違っていたということに、

痛切に気付かされた。

本当の幸せ探しの旅に、これから出ようと思う。