★千代と限らじ仙臺の松★ ~We are feelin' love together~ 

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※2024年7月5日訪問※


資福寺跡の伊達家墓所内に残されている【伊達輝宗の墓所】です音譜


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伊達 輝宗(だて てるむね)は、戦国時代の武将・戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏16代当主。伊達政宗の父。


天文13年(1544年)9月、伊達晴宗の次男として、伊達郡西山城に生まれる。母は久保姫、御童名は彦太郎、後に総次郎と名付けられた。

長兄・親隆は岩城氏との約束どおり、母方の祖父である岩城重隆の養嗣子となることが定められていた為、次男・総次郎が伊達氏の世子となった。 

天文17年(1548年)、天文の乱が和睦によって終結した。

父・晴宗は本城を置賜郡米沢城に移し、輝宗は母(久保姫)や兄弟共々米沢城に移り住んだ。 

天文24年(1555年)3月19日、晴宗が叙爵の日、総次郎は11歳で元服し、室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を賜り、輝宗と名乗った。 

永禄8年(1565年)、晴宗が隠居し、輝宗は家督を譲られ伊達氏第16代当主となる。

輝宗はそのまま置賜郡米沢城に居を構えて羽越の境を守り、晴宗は妻の久保姫と共に信夫郡杉目城に移り住む。杉目城隠居は相馬氏や四本松の石橋氏との境を押さえる為でもあった。 

その後、輝宗は出羽国山形城主最上義守の娘(最上義光の妹)・義姫を娶る。

永禄10年(1567年)8月3日、米沢城で長男が生まれ、梵天丸と名付けられる。のちの伊達政宗である。 

永禄13年(1570年)4月、輝宗は家中の統制を図り、中野宗時に謀反の意志有りとして牧野久仲の居城・小松城を攻め落とし、中野父子を追放する。

家中の実権を掌握した輝宗は、鬼庭良直を評定役に抜擢して重用し、また、中野宗時の家来であった遠藤基信の才覚を見込んで召し抱え、外交を担当させた。

この両名を中軸とする輝宗政権は、晴宗の方針を引き継いで蘆名氏との同盟関係を保つ一方で、南奥羽諸侯間の紛争を調停した。

また幅広い外交活動を展開し、天正3年(1575年)7月には中央の実力者である織田信長に鷹を贈ったのを始めとして、遠藤基信に命じて北条氏政・柴田勝家と頻繁に書簡・進物をやりとりして友好関係を構築した。 

一方、対相馬戦においては、相馬盛胤・義胤父子の戦上手さに苦しみ、戦局がなかなか好転しなかったが、天正7年(1579年)には田村清顕の娘・愛姫を嫡男・政宗の正室に迎えて相馬方の切り崩しを図り、天正10年(1582年)には小斎城主・佐藤為信の調略に成功すると、天正11年(1583年)5月17日、ついに天文の乱以降最大の懸案事項であった要衝・丸森城の奪還に成功し、翌天正12年(1584年)1月11日には金山城をも攻略した。

伊具郡全域の回復が成ったことで輝宗は停戦を決め、同年5月に祖父・稙宗隠居領のうち伊具郡を伊達領、宇多郡を相馬領とすることで和平が成立した。

ここに至って伊達家は稙宗の頃の勢力圏11郡余をほぼ回復し、南奥羽全域に多大な影響力を行使する立場となった。

天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆が男色関係のもつれから家臣に殺害されると、生後僅か1ヶ月で当主となった盛隆の子・亀王丸の後見となる。

輝宗はこれを機に政宗に伊達家の家督を譲ることを決め、修築した舘山城に移った。以後、自らは越後介入に専念するつもりであったという。

ところが、家督を継いだ政宗は上杉景勝と講和して伊達・蘆名・最上による共同での越後介入策を放棄したため、蘆名家中において伊達家に対する不信感を増大させるに至った。

天正13年(1585年)春に、政宗は岳父・田村清顕の求めに応じて伊達・蘆名方に服属して田村氏から独立していた小浜城主・大内定綱に対して田村氏の傘下に戻れと命令した。

田村氏は前年に大内氏との争いに際して輝宗より示された調停案を不服として従わず、大内氏に加勢した石川昭光・岩城常隆・伊達成実らの攻撃を受けており、輝宗の裁許に従ったまでであるとして定綱がこの命令を拒否すると、政宗は同年4月に大内氏に対する討伐命令を下した。

定綱は蘆名盛隆未亡人(輝宗妹・彦姫。亀王丸の母)にとりなしを求めたものの、政宗は5月に突如として蘆名領に侵攻し(関柴合戦)、これに失敗すると定綱とその姻戚である二本松城主・畠山義継へ攻撃を加えた。

こうした政宗の急激な戦略方針の転換により、輝宗によって築かれた南奥羽の外交秩序は破綻の危機を迎えることになった。

同年10月、義継は政宗に降伏を申し入れ、輝宗と伊達実元の斡旋により、五ヶ村を除く領地召し上げの厳しい条件で和睦した。

同月8日(1585年11月29日)に義継は調停に謝意を表すべく宮森城に滞在していた輝宗を訪れたが、面会が終わり出立する義継を玄関において見送ろうとした輝宗は、義継とその家臣に刀を突きつけられ捕えられた。

伊達成実の著作とされる『成実記』および伊達家の公式記録である『伊達治家記録』によると、同席していた成実と留守政景が兵を引き連れて遠巻きに追ったが、二本松領との境目にあたる阿武隈川河畔の高田原に至ったところで、輝宗が自分を撃てと叫ぶと、それが合図となって伊達勢は一斉射撃を行ったという。

この銃撃で輝宗と義継を始めとする二本松勢は全員が死亡し、鷹狩中であった政宗が一報を受け現場に到着したのは既に全てが終わってからであったとしている。享年42。 

一方『会津旧事雑考』は、現場に駆けつけた政宗が覚悟を決めたことを察した義継により、輝宗が刺殺されたとし、『奥羽永慶軍記』は政宗自身によって義継と輝宗は撃ち殺されたとする。

輝宗の亡骸は寿徳寺(福島県福島市。現・慈徳寺)で荼毘に付され、資福寺(山形県高畠町)に埋葬された。

この時、遠藤基信・内馬場右衛門・須田伯耆の三人が輝宗に殉死した。

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伊達家16代当主・伊達輝宗の墓所です音譜


非業の死を遂げた伊達輝宗、1987年のNHK大河ドラマ《独眼竜政宗》では、俳優の北大路欣也さんが伊達輝宗を演じておられましたキラキラ


息子・政宗の才能を見抜き、家中での家督争いを避けるため早々に政宗に家督を譲った輝宗キラキラ


畠山義継による、いわゆる《粟之巣の変》により、42歳の若さで命を落とした事は、政宗初め多くの家臣達も嘆いた事でしょうねあせる


伊達家を継いだ政宗は、時の天下人達の命令により、米沢の地を去る事となり、資福寺も最終的には仙台へと映りました音譜


仙台に拠点を構えた伊達政宗は、慶長十九年(1614)、幕命により、娘婿である松平忠輝の居城となる越後高田城の普請を命ぜられますキラキラ


普請を終えた政宗は、仙台への帰路の途中、旧領である米沢に入り、上小松村の常念寺に宿泊音譜

翌日、夏苅村の父輝宗の墓所がある資福寺跡を訪れ、(名代を派遣したとの説も)「あるときは あるにまかせてうとけれど なき跡をとふ 草枕かな」と故郷への想いを詩に残しています音譜