■アイルトン・セナ | 乱丸の不思議?

乱丸の不思議?

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メモアイルトン・セナ


ブラジル人のレーシング・ドライバー。


F1世界選手権において、1988年・1990年・1991年と、計3度ワールドチャンピオンを獲得した。



メモ人物


時代を代表するドライバーの1人とされ、特に計65度のPP獲得数は、2006年にミハエル・シューマッハに更新されるまで歴代1位だった。


アラン・プロスト、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセルとは、1980年代から1990年代前半のF1を象徴する存在として、「四強」「ビッグ4」「F1四天王」などと纏めて呼ばれることもある。


特にプロストとのライバル関係が知られ、日本では2人の争いが「セナ・プロ決戦」「セナ・プロ対決」などと呼ばれた。


日本では、古舘伊知郎が実況中継で使用した「音速の貴公子」がよく知られている。


母国ブラジルにおいては、サッカー選手のペレ、ジーコと並んで、特に偉大なスポーツ選手の1人とされている。



メモ出生・幼少期


ブラジル最大の都市であるサンパウロ市の地主で、農場や牧場、小規模商店、自動車修理工場などブラジル国内でも有数の多角経営者であるミルトン・ダ・シルバの長男として誕生。


4歳の誕生日の際、父からレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、ドライビングに熱中。


その才能を磨き、父の豊富な資金と環境がドライビング技術の向上を支えた。


8歳のころに工場のスクラップ寸前のジープをクラッチを使わずに走らせたという珍話もある。


ただし、学業の成績に悪影響があれば、カートを辞めることが常に条件として課されていたという。



メモカートレース


13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。


1978年には当時の日本国内カートレースの最高峰「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日し、4位入賞。


1980年のシーズンオフには、幼馴染のリリアンと結婚。この頃から各メディアへのPR活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。



メモF3


1983年にはイギリスF3に参戦し、開幕戦から9連勝を記録。


最終成績は、20戦中12勝という当時の最多勝記録だった。


この頃から、父方の姓「ダ・シルバ」ではなく母方の姓「セナ」を表向き名乗るようになる。



メモトールマン時代


当初、F1へステップアップする際にブラバムと交渉したが、当時ブラバムに所属していたネルソン・ピケがセナの加入に反対したため実現しなかった。


その後、トールマンからF1デビュー。


初戦ブラジルGPはターボトラブルでリタイアに終わったものの、第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。


大雨でハーフレースとなった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げ2位でフィニッシュ。


自身とトールマンに初の表彰台をもたらすと同時に、自身初のファステストラップを記録した。


第10戦イギリスGP・最終戦ポルトガルGPでも3位に入り、計3度の表彰台を経験。



メモマクラーレン時代


マクラーレンに移籍し、当時すでに2度のタイトルを獲得していたアラン・プロストとコンビを組むこととなる。


セナの移籍に伴い、この年よりマクラーレンにもホンダエンジンが搭載されることとなった(一説ではホンダからマクラーレンにエンジンを供給する条件がセナの雇用だったとも言われている)。


こうしてセナ、プロスト、ホンダエンジンの組み合わせでマクラーレンチームは開幕から連勝を重ねた。


第5戦カナダGP、第7戦フランスGP、第10戦ハンガリーGPなど、2台のマクラーレンによる激しいバトルが再三行われた。


2人のポイントが分散したため、コンストラクターズタイトルが第11戦ベルギーGPで決定したのに対し、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤までもつれ込んだ。


セナはベルギーGP以降一時不調に陥るも、第15戦日本GPでスタート失敗による14番手転落から追い上げて優勝、自身初のタイトルを獲得した。


この年の16戦中8勝・13PPという数字は、いずれも当時の史上最多記録を更新するものであった。



メモウィリアムズ時代


長年慣れ親しんだマクラーレンを離れ、前年のチャンピオンチームであるウィリアムズ・ルノーへ、念願の移籍を果たす。


人々はウィリアムズに移籍したセナが全勝するのではないかと予想。


しかし、前年までのウィリアムズの武器であったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどのハイテク技術がこの年のルール変更により禁止され、新車FW16は開幕直前まで完成を待たなければならず、当時のデザイナーであるエイドリアン・ニューウェイの指揮の元、空力を重視したマシンは非常にナーバスなマシンに仕上がっていた。


開幕戦ブラジルGPではPPからスタートするも、ピット作業でシューマッハに逆転され、追走中にスピンを喫しリタイヤ。


第2戦パシフィックGPでも2戦連続のPPを獲得するも、スタート直後にハッキネンとニコラ・ラリーニに追突されてリタイヤ。


開幕2戦を消化した時点でのノーポイントは、デビュー以来初のことだった。



メモ事故死


セナは開幕から3戦連続のポールポジションから決勝をスタートし、1コーナーでも首位をキープしたが、後方での事故によりセーフティーカーが導入される。


そして再スタートが切られた後の7周目(現地時間午後2時17分)、直後にミハエル・シューマッハを従えて超高速・左コーナー「タンブレロ」において時速312kmで首位を走行中に、そのまま直進してコースアウトし、コース右脇のコンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km-220kmまで急減速していた)、セナが駆るマシン・FW16は大破した。


車載映像には、セナがシフトダウンしステアリングを左に切るもののマシンが曲がらないままコンクリートウォールに向かう映像が残っている。


また、カウンターを当てたのか一瞬マシンが右に向く場面もあって謎が謎を呼び、その後自殺説やチームオーナーのフランク・ウイリアムズが追及されたりと、さまざまな憶測も飛び交うこととなったが事故原因の確定的な結論には至らぬままだった。


セナは意識不明のままヘリコプターでボローニャのマジョーレ病院に緊急搬送されたが、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、事故発生から約4時間後の午後6時40分に、34歳で死亡した。



テレビYouTubeからアイルトン・セナ「クラッシュ映像」

右矢印https://www.youtube.com/watch?v=nzDGEk5NmvI



乱丸のコメントひらめき電球


私がF1に興味をもったのは高校の時でした。


当時のセナはマクラーレンに在籍していてフェラーリのプロストと激しいバトルを繰り広げていました。


あの頃はもう完全に「音速の貴公子」、アイルトン・セナの時代でしたねビックリマーク


その後ウイリアムズが圧倒的な強さを誇り、念願のウイリアムズ移籍を果たした直後の事故でした汗


私はニュースで知ったのですが誰もが衝撃を受けたのではないでしょうか!?


ブラジルではプロサッカーの試合が行われていたらしいですが、試合を途中で中断しセナへの黙祷を行なったらしいです。


それほどの伝説的な国民的英雄だったということですね。


番組でセナとカート対決した石橋貴明さんに「鈴鹿で優勝した際のヘルメット」のプレゼントを頼まれ約束したセナ。


セナが事故死した後にちゃんとタカさんに贈られたそうです。


私もそうですが、彼の走りに魅了されてF1を見るようになった方も多いのではないでしょうか!?


新しいF1の時代を作ったのは、間違いなくアイルトン・セナあなたです。


あなたの走りは永遠に語り継がれるでしょうね合格



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