ブルース・リー
サンフランシスコ中華街生まれの中国人、中国武術家、武道家、香港の俳優、脚本家、映画プロデューサーである。
截拳道(ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。
墓碑銘は「FOUNDER OF JEET KUNE DO」。
リンダ・エメリーとの間に一男一女。
息子はブランドン・リー、娘はシャノン・リー。
出生・幼少時代
父親の中国系で広東演劇の役者の李海泉と、ドイツ・中国人のハーフの母親グレイス(中国名:何愛瑜、香港の実業家何甘棠の娘)が家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコの中華街の病院で生まれた。
5人兄弟の次男。
映画には芸名の李小龍で出演している。
生後3ヶ月あまりでサンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演した。
その後イギリスの植民地下の香港に帰国した。1941年12月から日本とイギリスが開戦し、香港が日本の占領下におかれ映画の製作が止まったために出演作はないが、第二次世界大戦終了後、製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演。
中国武術の一派である詠春拳の葉問(イップ・マン)の指導で中国武術を身につける。
少年の頃、道場にはバスで通い、バス停で他の生徒に「今日も休みだ」と嘘をついて帰らせ、葉問の個人レッスンを受けたという逸話がある。
また上海精武体育会香港分会にて北派少林拳の邵漢生に指導を受け、節拳(弾腿門)などを学んだ。
渡米・結婚
何不自由なく育ったリーの将来を心配した父は、「俳優の不良息子」として悪名を知られた香港から離し、渡米を命じる(アメリカで出生届を出していたので米国籍があった)。
18歳のリーは、わずか100ドルの所持金で単身渡米し、シアトルに移り住む。
新聞配達のアルバイトをして職業訓練学校のシアトル・セントラル・カレッジに通い高校卒業資格を得て、ワシントン大学哲学科に進学。
勉学に励むかたわら、「振藩國術館」を開いて中国武術の指導を始める。
高校で哲学の講師もしていた。
その頃、同じ大学の医学生で、道場の生徒だったスウェーデン系イギリス人リンダ・エメリーと結婚。
その後、大学を中退し、道場経営に専念。
截拳道(Jeet Kune Do/JKD/ジークンドー)を創始する。
武道家からアクションスターへ
1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢される。
正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博す。
これをきっかけに、ロサンゼルスでハリウッドの俳優やプロデューサーを顧客に武術の個人指導をするようになり、TVや映画などのゲスト出演を重ねる。
『グリーン・ホーネット』の後、アメリカの連続テレビドラマ『燃えよ!カンフー』を企画し、自ら主演を願ったが、東洋人であることなどを理由に叶わなかった。
1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。
翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。
リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。
主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。
この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。
1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。
しかしハリウッドのワーナー・ブラザーズとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。
1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。
かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出した。
死去
1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。
そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。
32歳であった。
死因
公式な死因は脳浮腫(のうふしゅ)である。
司法解剖の結果、微量の大麻が検出されたほか、脳が極度に肥大化していたことが判明した。
検死報告によると、彼の脳は1,400gから1,575g(13%の増加)まで膨らんでおり、頭蓋内圧亢進により脳幹部が圧迫されて死に至ったと考えられている。
脳浮腫が起きた原因は背中の古傷に長年使っていた痛み止め薬と、その晩に服用した頭痛薬の副作用といわれている。
YouTubeから「ドラゴンへの道」
https://www.youtube.com/watch?v=dgj0czuJ4bw
乱丸のコメント![]()
私が生まれた年に亡くなられたんですね。
小学生の頃は完全にジャッキー・チェンの時代だったのでブルース・リーの事は知りませんでした。
ブルース・リーを知ったのは、友達か誰かがジャッキー・チェンより凄いアクションスターがいると聞いたのが最初だったと思います。
中学の頃にレンタルビデオが流行りだした頃にはじめてブルース・リーの映画を観ました。
「燃えよドラゴン」でした。
彼は明らかにジャッキー・チェンとは違う、異彩なオーラを放ってましたね![]()
あの体に鋭い眼光![]()
そして技の切れの良さ![]()
観ているだけで強さを感じました。
過去の経歴などを見ると結構苦労人だったみたいですね。
頭も良く文武両道だったんですね。
いろんなアクションスターがいますが、彼の真似は誰にもできないと思います。
だからこそ、伝説的に語られるのでしょうね![]()
それにしても32歳ですか![]()
もっと彼の活躍を見たかったです。
惜しい
あまりにも惜しい![]()
きっと、これからもブルース・リーの名前は永遠に語り継がれるでしょうね![]()
ブルース・リー トリビュート インフィニット スケール スタチュー Ver.2 BW-ISS2102 (塗装済...
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