宮崎勤
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕、起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である。
1962年8月21日 - 2008年6月17日
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
この事件は、4歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取ったことから、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件などとの比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。
特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺したことで「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。
1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が別件のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯で逮捕された。
取り調べが行われる中で、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件の一部の事件への関与を認める供述を始める。
8月10日に供述どおりに遺体が発見され、その日の夕刊とテレビから大々的な実名報道が始まる。
8月11日に誘拐と殺人の容疑で再逮捕され、以後9月にかけて4つの事件への関与を次々と供述する。
なお、逮捕される前から宮崎が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。
宮崎が自室に所有していた「5,763本もの実写ドラマなどを撮影したビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。
2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。
そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。
宮崎は公判において、「犯行は覚めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「俺の車とビデオを返せ」など、不可解かつ身勝手な発言を繰り返していた。
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。
判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された。
控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。
弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。
この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたことが明らかになっている。
死刑確定後、手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望していた。
これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。
また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いのほどを問われ「特に無い。いいことが出来て良かったと思う」と答えたことは遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。
2008年6月17日、鳩山邦夫法務大臣の下により東京拘置所に於いて死刑執行。
宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られることはついに最期まで無いままであった。
第一の事件
1988年8月22日、4歳の女児(以下KM)が誘拐・殺害される。
殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。
動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人にどうして写真だけでは済まなくなったかを聞かれた際は、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
第二の事件
1988年10月3日、7歳の小学1年生の女児(以下YM)が誘拐・殺害される。
こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。
動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。
第三の事件
1988年12月9日、4歳の女児(以下NE)が誘拐・殺害される。
NEは失禁した。
焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。
12月15日、NEの全裸死体発見。
12月20日NE宅に葉書が届く。
この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、YMの遺体を発見できなかった。
第四の事件
1989年6月6日、5歳の女児(以下NA)が誘拐・殺害される。
NAの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。
また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。11日NAのバラバラ殺人遺体発見。
動機
事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。
鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。
「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず・・・幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。
家族
稀に見る凶行であったため、家族へ及んだ影響も大きかった。
人々の宮崎への憎悪はそのまま彼の家族へと波及した。
宮崎は両親の他に姉妹二人兄弟二人がいたが、彼らに対して「お前達も死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が大量に殺到した。
長女は職を辞め次女は結婚予定であったが自ら婚約を破棄した。
二人の兄弟もいずれも辞職した。
父親の弟は、5つの会社の役員を全て辞職をした。
また父親の次の弟には2人娘がいるが、職を辞めてしまい、旧姓に戻るため妻と離婚をした。
母親の兄の2人の息子も辞職した。
背景には週刊誌で暴露された影響があったと言われる。
家族は宮崎の逮捕から1年後に引越をした。
宮崎は父親に対して私選弁護人をつけてくれるよう要請したがこれを拒絶。
年後の1994年に父親は自宅を売って、その代金を被害者の遺族に支払う段取りを付けると、東京都青梅市の多摩川にかかる神代橋(水面までの高さ30m)から飛び降り自殺を遂げた。
作家の佐木隆三は父親の自殺を「現実逃避であり被害者家族を顧みない行為である」と非難した。
佐木は他にも私選弁護士をつけるよう要請して来た宮崎を拒絶したことについても批判している。
私選弁護人を選定しなかったことで国選弁護人が選ばれ結果国費が使われるからというのがその論旨であった。
宮崎の父親には私選弁護人をつけるだけの経済力が十分備わっており、佐木は父親への批判として「家庭における父親の不在」というキーワードを挙げている。
父親とかねてから交流があり、事件後も父親へのコンタクトを定期的に続けた新聞記者は、「この事件を通して、加害者の家族は罪を犯した加害者以上の苦痛に苛まれることを知った」「加害者家族が直面する現実を、初めて目の当たりにした」と語っている。
宮崎の父親は、自分が糾弾されるのは、息子が犯した罪を思えば当然だが、全く関係のない自分の親族らにまで非難の矛先が向けられ、辞職したり、逼塞することを余儀なくされていることに苦悩していると、インタビューで言及していた。
現在、宮崎の出生家は取り壊されて空き地になっているが、その土地の買い手がだれも現れず、荒れ地になっている。
宮崎勤の生い立ち
小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった。
中学生時代は1、2年生の時には陸上部、3年生の時には将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着した。
また通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることがあった。
成績は上位であって、小学校の頃から算数(数学)が得意と語っており、また宮崎の母が「うちの子は英語が得意なの」と自慢しており、英数の成績は良かった。
しかし、その一方で国語と社会科を苦手としていた。
1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野高等学校へ進学するが、両親は”英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学した”と勘違いしていた。
同級生は、暗く目立たない少年だった、と証言している。
高校時代は成績が徐々に落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えたほうが早い成績で、その希望は果たせなかった。
高校卒業後の1981年4月、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。
この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった。
1982年の短期大学在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人とともに出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、他の出演者に隠れて、インタビューを受けることはなかった。
俳優の川崎麻世は短大の同級生であるが、宮崎の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方だし、クラスは全部で80人ほどだったから、忘れるはずはないんだが、そんな奴いたかって感じなんだ。同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった。」というほど影が薄い存在であった。
1983年4月の短大卒業後は叔父の紹介で、小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。勤務態度は極めて悪く、評判も非常に悪かった。
1986年3月に依願退職という形で解雇。
家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたが、自室にこもる生活が数ヶ月続いた。
月ごろから家業を手伝い始めるが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった。
この頃アニメの同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。
その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換、収集するようになるが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかった。
ビデオサークルでは、他の会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていた。
逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する。
1988年5月16日、祖父が死去。
8月22日に第一の犯行を起こす。
1989年3月には晴海のコミックマーケットに漫画作品を出品している。
現行犯逮捕
1989年7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された。
8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、8月10日にその供述どおりに遺体が発見されたことから、同日の夕刊とニュースで宮崎の実名報道が始まる。
翌8月11日に連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕された。
以後、次々と事件が明るみに出た後、後藤正夫法務大臣(当時)は、「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した。
1989年8月24日、東京地方検察庁の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。
精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察は起訴に踏み切った。
初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・」と罪状認否で訴えた。
公判開始後の1990年12月より、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される。
この鑑定では動物虐待などの異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べたことなどは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた。
1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。
人格障害とされた。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされたことを証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した。
1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により再鑑定が始まる。
1994年12月に鑑定書が提出される。
第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。
宮崎勤死刑囚に死刑執行
連続幼女誘拐殺人事件の宮崎勤死刑囚(45)の死刑が17日、東京拘置所で執行された。
判決確定から2年余り。
宮崎死刑囚は再審請求の意向を示し、死刑制度を批判する手紙も公表したが、鳩山邦夫法相は早期の執行を決断した。
社会を揺るがした特異な事件の発生から20年。
法廷で不可解な発言を繰り返した男からは、最後まで反省や謝罪の言葉は聞かれなかった。
「絞首刑は残虐」
宮崎死刑囚は、月刊誌「創」の篠田博之編集長に宛てた手紙の中で現行の死刑制度を批判する持論を再三展開した。
同誌06年7月号によると、宮崎死刑囚は現行の絞首刑について「踏み板(床板)がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである(人権の軽視になってしまいます)」と主張。
薬物注射による執行の導入を訴えた。
また、07年5月の手紙では「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる」(同誌07年8月号)とも述べていた。
篠田編集長によると、宮崎死刑囚からはほぼ毎月、手紙が届いた。
幻聴を訴えたり、拘置所内で放送されたラジオ番組の内容を詳細に記すこともあった。
しかし、10年以上にわたる300通以上の手紙の中で、被害者や遺族への謝罪はなかったという。
執行を聞いた篠田編集長は「全く想定していなかった。極めて異例の早い執行だ」と驚きを隠さなかった。
「彼は病気の影響もあって無頓着で、自分がどういう境遇にあるのか、よく分からない様子だった。
死刑確定の意味についてもしっかり説明は受けていないようだった」と振り返った。
06年1月に最高裁で上告が棄却された後、東京拘置所で面会した関係者に対し、宮崎死刑囚はほおづえをつきながら「(死刑は)何かの間違い」と語った。
再審請求する意向を周囲に示していたという。
なぜ、あのような事件を起こしたのか。
この疑問を解こうと、臨床心理士の長谷川博一・東海学院大教授は最高裁判決の前日から約2週間の間に8回、宮崎死刑囚と拘置所で面会した。
だが、公判で「(犯行時に)ネズミ人間が出てきた」などと不可解な供述をしていた宮崎死刑囚は、面会でも「常識では通用しない答えが多い」(長谷川教授)。
反省の言葉を口にすることもなかったという。
社会に与えた恐怖とオタクへのイメージ
この事件は当時の社会に対して大きな衝撃を与えた事は言うまでもないであろう。
テレビ番組などでは地下鉄オウムサリン事件と並んで特集されるほどである。
それによってペドフィリアやオタクに偏見が生まれたことにより社会的な情勢までもを変化させてしまったのも事実である。
『オタク=気持ち悪い・変態』の方程式はこの事件がきっかけにできたものであることが定説である。
事件後宮崎勤の自室の写真が報道されたが、それに写された大量のポルノビデオの山は撮影した記者によって捏造されたものであることが当時事件を現場取材していた読売ウィークリーの木村透デスクによって公式のブログ上で明かされた。
当時のマスコミが、オタクを性犯罪者予備軍として強調しようとした姿勢がうかがえる。
YouTubeからの映像
https://www.youtube.com/watch?v=VpeTFdrST90
乱丸のコメント![]()
この事件当時、私は中学3年生だったと思います。
大きく報道されたので知らない人がいなかったです。
クラスで誰か変態的な事やエロい話をすると「宮崎勤か!」と言われるくらい変態の代名詞になっていました![]()
あの頃は事件について詳しくは知らなかったのですが、今あらためて記事を読んでみるとものすごい事やった人だったんだなと思います。
それにしても自分の事しか考えてない男ですね![]()
被害者に一言の侘びもなく、「死刑はいや」だの「絞首刑は怖い」だの![]()
自分のやってきた事考えろっての![]()
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こんなんじゃ弁護の余地もないですよね、まったく腹が立つ![]()
家族や親戚もかわいそうですね![]()
この事件に限らず凶悪犯罪を犯した家族は苦労してるんでしょうが、当の本人はそこまで考えずに犯行を犯すんですよね![]()
本当に腹が立つ事件でした![]()
