孤○の○ル○
疲労が身体全体を包んでいる。鬱陶しくもあり、また心地よくもある感覚。ラグビーをしたあとはいつもこうだ。節々は鈍く痛んでいる。競技の性質としてラグビーは自分の力を百パーセント引き出すこと以外選べないので自然と身体を酷使することになる。だから疲労と痛みは当然の結果なのだ。
腹だって減る。
そう、わたしは輪郭のある激しい空腹を抱えながら練習からの帰り道を歩いていた。今すぐにでも何か腹に入れたい。空腹を満たしたいし、練習後にはなるべく早く栄養素を摂ることが強い身体をつくることにつながる。しかし食事と年に一度のクリスマスツリーの飾り付けには並々ならぬこだわりを持つわたしだ。とりあえず空腹を満たしたいからとそんじょそこらの店に入るわけにはいかない。これはもう絶対にそういうわけにはいかない。なぜなら食事というのはそういうものではないからだ。
ということを考えながら歩いていたわたしは自分が見知らぬ場所にいることにふと気がついた。ここはどこだろう? 辺りを見回してみるが見覚えのあるものは何もない。どうやら道に迷ったようだ。わたしはたまにこういうことをしてしまうのだ。考え事をすると周囲が見えなくなってしまう。
路地にいるみたいなのでとりあえず表通りに出ることにした。街並みと車の音を頼りに少し歩くと太い通りに行き着いた。標札を見るとこの大通りが玉川通りであることがわかる。246。青山通りへとつながる都市の大動脈。そんな大通りだからファミリーレストランや最近オープンしたばかりという感じのラーメン屋は探さなくともすぐに見つかる。溢れている。けれど違うのだ。わたしが求めているのはそういう店ではない。わたしが求めているのは料理が美味く、ちゃらついていなくて、そして一人で落ち着いて食事ができる、そんな店なのだ。
その気持ちを持ってしばらく道沿いに歩いたら『駒沢大学駅前』という交差点に差し掛かったのでそこを勘を頼りに北側に曲がることにした。片側一車線の通り。二十メートルほど歩くと視界の左端に留まるものがあった。車一台分の幅の路地の先に置かれたダイニングカフェの看板。足が止まった。なぜか妙に気になる。糸に引っ張られるようにしてわたしはふらりとそちらに向かっていた。
奇妙だ。
路地に一歩足を踏み入れただけで国道246号線の喧騒がまるで聞こえてこなくなる。静けさの魔法にかかった気分でわたしは足を進めた。店舗の横幅は三間くらい。白塗りの壁。入口の扉にはOPENの架け看板。瀟洒な扉だな、とまず思った。入口の扉は一枚の木板で、年月に洗われた風格がある。どこかでわざわざ見つけてきた扉だろう。その隣の鉄格子の窓ガラスの向こう、客は何人か入っているみたいだ。雰囲気は良さそうに見える。しかし雰囲気だけということはありはしないだろうか? この手のダイニングカフェにはありがちなことだ。コンセプトだけが先行して中身の伴わない街カフェ……しかしわたしの深いところがこの店の無視できない何かを掴んでいた。それが何かはわからない。だが立ち去り難いものが確かにあるのだ。
入るべきか入らざるべきか?
いいや、ゴーサインは出ている。迷うことは何もない。わたしは扉を押し開いた。
――いらっしゃいませ。
出迎えたのは長身の男性だ。30代中盤。ナポリ風の彫りの深い顔立ち、どこかボーイスカウト上がりを思わせる雰囲気、トラッドな服装。見たところ店員はもう一人で、奥のキッチンにいる細身の女性。店の広さからして店員は二人で充分だろう。夫婦かもしれない。二人用のテーブルに案内された。スツールに座り、店内を見回す。縦長の店内は決して広くない。ハマーのH1シリーズが一台収まるかどうかというくらい。十人も入ればいっぱいになるはずだ。しかし、いやだからかもしれないが、まとまっている。内装は白を基調としていて、枠やテーブルは木。天井ではベトナム戦争を舞台としたハリウッド映画に出てきそうな大型のファンが午睡を楽しむようにゆっくりと回っている。ファンにはうるさいわたしからしても納得の佇まいのファンである。
――こちらがメニューとなります。
受け取ったメニュー表に記載された料理の並びは一見したところ標準的だ。ハンバーグ、シーザーサラダ、タンドリーチキン、フライドポテト、グラタンにニョッキ……しかしわたしの目に異物として強く飛び込んできたものがあった。チャーシューである。それも名物と銘打たれている。小粋なダイニングカフェを地で行こうとしているように見えるこの店においてそれはあまりに特異な存在に思えた。完全にミスマッチだ。しかしだからこそ気になる。だからこそ挑む価値があるのだ。一度瞼をつむったあとにわたしは手を軽く挙げて店員の男性を呼んだ。
――ご注文は決まりましたか?
「ハンバーグにフライドポテトそれにこの……名物チャーシューを」
――かしこまりました。ハンバーグは注文を受けてから作り始めますので少しお時間かかりますがよろしいですか?
「構いません」
――お飲み物は?
「ビールを」
――お待ちください。
すぐに運ばれてきたのはビールとお通しの小皿だ。ビールは冷えている。小皿の内容はカレー風味の鶏肉の下にほうれん草を敷いたもの。悪くない。料理が運ばれてくるまでのお供に最適だ。
店員の男性が近くでグラスを磨いていたので話しかけてみた。お二人でお店をされているんですか? するとやはり夫婦だということがわかった。男性が店主・ウェイターで、妻である女性が調理担当。オープンして一年と少しだという。まだ若い店だ。そのわりには店自体に落ち着きがある。なんというか地面に根付いているのだ。
小皿をちょうど食べ終えたところでチャーシューが運ばれてきた。フリスビーくらいの大きめの皿にチャーシューが惜しげもなくごろごろと盛られている。その下にはキャベツ。皿の底は見えない。わたしは唾を飲み込んだ。
チャーシューが、肉厚。
ラーメン屋に入って悲しくなるときがいくつかある。チャーシュー麺のチャーシューが海苔と同じくらいに薄かった場合がその一つだ。そんなやくざなチャーシューが世界には溢れている。幅を利かせているのだ。しかしこのチャーシューは違う。手帳みたいに厚みがある。言わばこれは店側からの誠意の現れである。しかし味は? 大切なのはもちろん味だ。わたしは箸を伸ばし、大きめの肉塊を口に入れた。
「ふはぁ」
思わず声が出そうになった。美味い。充分に煮込まれていて脂の部分は転がすだけでほわりととろけてしまう。肉はしっかりと噛むことができて旨味が口の中に広がる。これはご飯が欲しくなる。そして肉の下に敷かれたレタス。新鮮である。ちぎりたてなのだろうパリッとしていてシャキシャキと気持ち良い音が鳴る。しかもタレがたっぷりと絡まっていて単体でも味覚に乏しくない。これだけでもメニューとして成立するくらいだ。
良い出足だ。すごく良い。
感慨に浸っているわたしの前に次の皿が出された。フライドポテト アンチョビバター添えである。揚げたてであることがキッチンから聞こえていた油の爆ぜる音と頭の辺りを漂う匂いでわかる。厚めに切ってあるポテトにバターをたっぷりとディップする。そのバターが垂れる前に素早く口に運ぶ。
「うぉっほん」
かりっとした皮の内側に閉じ込められた熱さにわたしは顎を上げて息をついた。慌ててビールグラスに手を伸ばし、喉へと注ぐ。火傷しそうな口内を発泡が癒していく。熱さが引いたあとに残るのは麦芽の爽やかな香りとアンチョビバターの豊かな塩味だ。そして気が付く。セオリー通りに一杯目にビールを注文した判断は正解だった、と。このポテトとビールの相性はスコセッシとディカプリオにも優る。
チャーシューとポテトを片づけるとちょうどビールが空になったので次の一杯を注文することにした。ここはワインに力を入れているという。だから二杯目はワインだ。それが店に対するわたしからの誠意というものだろう。種類は豊富。メニュー表を上から下に目を通すとまるでアメリカ大陸を横断したような気分になる。魅力的な白も揃っているが、ハンバーグ――肉料理なので選ぶのは赤だ。わたしは店主を呼び、メニュー表を指で示した。「このワインをお願いします」
――かしこまりました。ハンバーグもそろそろ出ますので今しばらくお待ちください。
その言葉通り、ワインが注がれたあとすぐにハンバーグがやってきた。宣言通りに時間をかけてやって来た肉料理。これで最後。果たして真打ちの登場となり得るのか……。
深皿の上にくるまったアルミホイルが載っている。大きさは拳大。成人男性の拳大だ。この包みの中から出てくるのは果たして鬼か蛇か。期待と緊張を従えてアルミホイルのヴェールを脱がした途端、わたしは顔を仰け反らせた。機関車のように湯気が立ち上ってきたのだ。この密封具合、これは“何か”が閉じこめられているぞ。尋常ではない何かが。
湯気の向こう、見た目は変哲のないハンバーグである。香りもいたって普通だ。箸を入れる。この時点で肉汁が溢れ出た。底に溜まりができるほどに。なるほど、そのための深皿なわけだ。しかし溢れ過ぎではないだろうか? 途端にわたしは心細くなった。これで本丸に旨味が残らなかったら本末転倒だ……。
箸を入れると身はすんなりとほぐれる。箸先からまた湯気が立ち上った。掴んでも身は少しも崩れない。料理と風呂は熱々を楽しむのが好きなわたしは気休め程度に細い息を吹きかけてから決死の覚悟で口に放り込んだ。そして噛む。
「むふぅ くはあ」
ほとばしるほどに肉汁が溢れ出る。皿にあれだけ分け与えておいてなお内部にここまでの肉汁が残っているとは予想していなかったわたしは戸惑いすら覚えた。噛むほどにこぼれてくる。そして肉の味。そう、誤魔化しのない肉の味がするのだ。汁、肉、汁、肉。まったくこいつはたいしたハンバーグだ。まったくこいつは正真正銘の本丸だぞ。そう、ハンバーグっていうのはこういうのでいいんだよ、こういうので……。
ここで口内を冷ますためにワインを含んだ。合う。店主がこだわって選んだというカリフォルニアの赤。そのふくよかな味わいは瞼の裏に地平線を描いた。その上に広がるのは西海岸の青い空。手前にはつやつやと光る葡萄棚。
全て食べ終えたとき、お腹はぱんぱんに膨らんでいた。店内も料理もおとなしそうな外見をしていて量はたっぷりなのだ。わたしは店主を呼んだ。お会計だ。
――ありがとうございます……円です。
安い。あれだけ食べてこの値段。そのからくりはドリンク代にあると見ていいだろう。一杯一杯の値段が抑えられているのだ。舌とお腹と財布。三者に三様の満足感を覚えながらわたしは店を出ようとしたが、店名を確かめていないことを思い出し、店主に訊ねた。あの、ここ、お店の名前は何ていうんですか?
――SunacoCafeと申します。今後ともどうぞご贔屓に……はい……
都会の喧騒を忘れられる静かな店内で、夫婦で営む穏やかで暖かな雰囲気の中、経験に裏打ちされた料理の数々に舌鼓を打つことができ、ボリュームもたっぷりでお腹はいっぱいになって、そのうえお値段もリーズナブルという、そんなお店。
SunacoCafe
東急田園都市線『駒沢大学』徒歩一分。
ランチは 12時~15時
ディナーは18時~23時半
6名以上から貸切も対応。
そんなお店。SunacoCafe。
※筆者と掲載店舗とのあいだに特別な関係は何もありません。